1. この問いを掲げたねらい
仏教が世に出現せねばならなかった課題とは何かを明らかにしたい。そのことは、取りもなおさず自らの現在位置を見定めることでもある。
2. さまざまな意見(話し合いのヒント)
- 悩みや苦しみから逃れたいという願望や、死への恐れと寂しさを慰めるために、人間が作りだした観念に過ぎないのではないか。
- 生きている以上、誰にでも不安や苦しみ悩みはあろう。それをどうするかの基準として、宗教は必要である。
- 人間の心ほど恐ろしいものはない。大義名分を掲げての戦争も、環境破壊も臓器売買も、人間の心が生んだものだ。宗教がなかったらこの世は闇ではないか。
- 人は必ず何かに頼る。何かを基準として生きていく。そのために宗教が必要だ。
- 私にとっては、宗教は生きていく上で何の役にも立っていない。
- 人は自分の意思と力だけで生きているものではない。神仏を崇めるのは当然だし、幸せを祈る気持ちは誰にでもあるのではないか。
- 言い方は違っていても、悪いことをするなということを、教えるためではないか。
- いつまでも元気に生きていけるものではない以上、かけがえのない一日一日を、どう受けとめて生きるのかは、誰にとっても一番の問題であるからではないか。
- こころを豊かにする。人間の思い上がりを歯止めする点では、どの宗教も同じではないか。
3. 話し合いを深めるために
仏教が、単に仏の教えというのみでなく、見出された真理という意味で「法」と呼ばれる意味を考えてみましょう。
仏教においては、私たちが「迷いの凡夫」と呼ばれることの意味を考えてみましょう。
〔参考〕
〇生死──┐仏教の課題 (宗教は・仏法は何のためにあるのか)
├──生死無常の理(『ご消息』) ──ほかならぬ我が身が無常の身
├──生死の苦海 (『高僧和讃』)──憂い悲しみ苦しみ悩み絶えぬ身
└──生死輪転家 (正信念仏偈) ──空しく過ぎようとしている。
〇なぜ宗教か、なぜ仏教か、なぜ浄土真宗なのか
・生老病死の「苦」ゆえに宗教は生まれる。「苦」という症状の背後に隠れている無
明煩悩の病こそが問題。
・「苦」は憂悲苦悩悶と表現され、四苦八苦(生・老・病・死・愛別離・怨憎会・求
不得・五薀盛苦)と示され、三苦(苦苦・壊苦・行苦)と表される。一切皆苦とい
うときの苦はままならぬ(不如意)の義とされる。
・その解決の道は、的確な診断に譬えられる如実智見によらねばならず、縁起の法を
を明らかにする仏法よりほかはない。
・原始仏教の一般定型句として次の一文がある。
「凡そ無常なるものは苦であり、苦なるものは無我である。無我なるものは、これ
はわたくしのもの、わたくし、わたくしの我ではない」相応部三-二二頁等
※無常なる現実は、わが意のままにはならないという事実を語っている。わが意の
ままにならないという事実は、不滅の霊魂、わがたましいを論ずることの無意味で
あることを教えているということ。「仏法は事実の教え」といわれる所以である。
要するに無常の事実が教えているものを如何に学び取るかということが出発点であ
ることがわかる。
・その仏法の中でも病人の体質に適した時機相応の治療ともいうべき本願念仏の妙薬
でなくてはならない。そこに、凡夫の苦悩を引き受けて、語りかけた如来の真実が
ある。真宗は「真実の教え」である。
〇仏教の特色
・仏法は「生死出ずべき道」と押さえられる。
・生死の空しさを越える真実(弥陀の誓願)に遇う道。
・慈悲と智慧の宗教。ジャータカ物語から菩薩道まで-使命の発見
・仏陀に遇うとは、罪悪生死の凡夫である自己に目覚めること。
〇出典根拠
・法蔵の出家(財力・権力の頂点に立つ国王が、力を捨てて願に生きようとする)
・釈尊の四門出遊の故事・青年期の回想
・御文章(上は大聖世尊より下は悪逆の提婆に至るまで逃れがたき無常・かねてたの
みおきつる妻子も眷属も何一つ。わずか五十年六十年のたのしみ)
〇他宗教、道徳との関係
エゴイズムの克服──「九十五種世をけがす」「見愛我慢の心を離れず」
・他の宗教は、個人エゴと集団エゴ、国家エゴ、同盟エゴを克服できていない。
倫理との関わり ──「慙愧あるがゆえに、父母兄弟姉妹あることを説く」
・慙愧という宗教的情念が基礎となってはじめて道徳倫理は成立する。
〇見いだされた「法」──如実智見
・事実に真向かいに立つ
〇凡夫──とらわれあるもの──エゴにとらわれ、事実から目をそむけるが故に、事実
に迫られてみずから苦悩するもの