この連研ノートの「問い」の流れに込めた意味について

  • すでにあるものとしての宗教は何故生まれたのかを考える中で、私にとって宗教とは何なのかを探り当てるために、まずこの問いを掲げた。
  • 仏法僧の三宝に帰依して仏弟子となり、仏弟子として生きることが仏教徒の基本である。帰依所(よりどころ)としての、仏とは何か、法とは何か、僧とは何かを確認する。
  • 仏については、阿弥陀如来とは何かということと、神とどう違うのかという点から学ぶ。
  • 法については、釈尊の覚りの内容である法が、万人へのメッセージである教法として説かれ、経典として伝えられ、読経という形で再現されていることを確認する。
  • 僧については、念仏者の集いとしての寺と、往生人の集いとしての浄土という形で取り上げた。これによって、真宗門徒としての意識を新たにしてもらおうとするものである。そしてそれはまた、自分にとっての帰依所、人生のよりどころを発見するという意味で真宗の利益に遇ってもらうことでもある。
  • しかし、以上のことが単なる知識的理解に終わったのでは、研修の趣旨が果たせないことになる。仏法僧の三宝の全体が、このわたくしのために阿弥陀如来の願いからとどいてきたものであるとの受けとめ(信心)がなにより肝要であることを確認し、浄土真宗が信心を以て本とする宗教であることの意味を考えようとする問いを掲げたのである。
  • その上で、苦悩と課題渦巻く現実の社会の中で、念仏者として生きるとはどういうことなのかを考えてみることにした。念仏も信心も個人の内面の私ごとという通念でよいのかが問われているからである。
  • 特に部落問題は、浄土真宗が宗教としての質を問われた問題であると同時に、人間がその人間らしさを花開かせるための最も大きな障害としての差別問題であり、基幹運動の出発点となった課題である。
  • また、靖国問題は、信教自由の侵害という意味で、宗教としての存立基盤を危うくするのみならず、神道的国家崇拝という面から、信心の空洞化の危険性をはらみ、戦死の讃美という点から、平和の礎をむしばむ危険性を問うものである。
  • これらの問題を内包する現実社会を前にして、浄土真宗はわたくし達に何を与え、何をもたらそうとするのかは、時代からの問いであるといわねばならない。
  • それは、社会通念に沿っていえば、人権尊重と念仏の精神はどうつながるのかということでもある。
  • これらのことを踏まえた上で、社会と家族のあり方の急激な変動の中で、次代への法義伝達をどうするのかを、共に考えてみたいという意味から、最後にこの問いを取り上げたのである。十三番目にこの問いを置いたのは、連研の閉講式と組み合わせて行われる法座にふさわしい問いということに配慮したからである。