仏教では「すくい」とか「さとり」とかいいますが、 それは同じでしょうか。

『如来無蓋の大悲を以て三界を矜哀す。世に出興する所以は道教を光闡し、群萌を拯ひ恵むに真実の利を以てせんと欲してなり。』
(大経上巻出世本懐の文 註釈版 P9)

 救いと悟りは同じか違うかということでございますけれども、このテーマはある意味で言いますと仏教共通の基盤となっておるものと浄土真宗独自の、その兼合いの問題でもあると思うのですね。
 仏教は悟りの教えなのでございます。その悟りの教えの上に何故救いということが語られて来たのか、語られねばならなかったのか、という事でもあろうかと思います。

悟りとは

 悟りと申しますのは一言では仏になる。悟るとは仏になるということです。仏になると悟ると二つあるのじゃない。悟るということが仏になるということです。
 で、救いということは、ですから悟れないままでという事なんですね。悟れないままで仏に守られるという事なんです。ですから救いというのはあくまでも、これは凡夫にとってのものでございます。悟りを得ておらない悩みもあれば迷いもある。そういう者にとってのということがあるわけですね。
 迷いや悩みを断ち切ってしまえばそれはもう悟りでございますから、ですから悟りというのは究極的ものだとする。仏教の究極的なものですね。ところが救いというのはそういう究極的な所に至り付けない現実のありのままのこの私が、この現在のままの中に仏法を、この日暮らしの中に今どう頂いて行くかと言うことであるわけでございます。
 救われたらどうなるかという事なのではなくて、実はこの私にとって仏法とは何か。この私は仏法をどう受け止めて行くかという問題なんだろうと思うのですね。そうお考え頂ければ少し身近かな話しに成ってくるのではないかと思います。
 さて、仏教は悟りの宗教なんだと申しましたが、悟りの宗教とはどういうことかと言えば、仏教の目標が転迷開悟という事でございます。迷いを転じて悟りを開くということですね。
 同時に転迷開悟と申してありますことは、因の方を問題としているということです。結果の上から言うと、それは抜苦与楽、これは結果でございますね。つまり転迷開悟の教え、悟りの教えとはどういうことかと言えば、苦しみの因が迷いでございますね。苦しみの種が迷いなんです。その種を破ってまことの安楽を見い出す智慧を得ようという事なんです。こちらは原因の方で言うてあるのですね。
 例えばですね。おなかが痛いのが楽になる。結果で言えばそういうことなんですね。おなかが痛いのが楽になる。だけどそれは、お医者様で言うとおなかの痛いのを楽にする研究をしておられるのでなくて、例えば、胃潰瘍を治すという事なんですね。こちらは胃潰瘍を治すという話しなんです。こちらはおなかの痛いのが治るという話しなんです。別のことではありませんので、実は悩み苦しみの原因は迷いにあるのだ。だから、迷いを断ち切って悟りを開くその事によって初めて苦しみを抜いて安楽を得ることが出来る。とこういう事になるるわけでございます。
 転迷開悟の教えだということは、智慧の教えだという事ですね。そして、抜苦与楽、苦しみを抜いて安らぎを与えようという教えであるということは、慈悲の教えであるということになる訳であります。知恵と慈悲ということが、仏教を支える原理だと言われるのもそういう事でございます。
 そしてその悟りというのは一体誰が悟るのかと申しますとわかるように、悟りという時は私が悟らねば仕方がないのですね。私共一人一人が悟ってゆくということになるわけです。自分の力で悟ってゆくというのが、お釈迦様で言えば、お釈迦様の教えというのは一人一人が修行して智慧を磨いて悟ってゆけよと言うことなんですね。
 何を悟るのかということですが、これが法を悟るということなんです。悟るという字ですが、目覚めるという字を書きますし、これは眠っている者に対して、心がはっきりしている。意識があるという意味ですね。これもさとりという字でございます。道。ただ目が覚めるだけではだめでして自分がどう生きていって良いかわからないのではこれはあかんので、自分の生き方が明らかになるということが実は、道が明らかになることが悟りなんですね。法ということも、法というのは目覚める。法に目覚める。真の道理に目覚めるということですが、同時に法を実践するという事で歩むべき道でもあるわけですね。そういう法を悟るということになるわけです。
 それでは一体、まことの道理であり歩むべき道である法というのは、お釈迦様はどういう風にお説きになったかということなんですが。これが、四諦八正道とか或は十二因縁とか或は三法印という形で、まとめられて仏教に於いて一番基本的な教えとされて来ました。どれも編成の仕方が違うだけで言うてあります内容は殆ど同じことであります。同じい教えなんですけれどもまとめ方が違うだけなんですね。

四つのまこと

 一番基本的な事をお話ししておきたいと思います。四諦と言いますのは、四つの悟り或は四つの真という事でございます。
 一つには、人生は苦である。今の言葉で言えば。「人生は」じゃない、総て苦であるということなんです。一切は苦である。一切は苦であるということは苦しいという事ではございませんで、意味が広うございまして、苦という場合は苦しいと感じる苦しみ、これを苦苦と申します。別に苦しくないけども私の頭も白くなったなあ。歩くのもこの頃あんまり歩くとけつまずくという訳ですね。そういう事を、年とったなあとか或は女房がおらんようなって愛想無いこっちゃ。と言うですね。壊れて行くという事です。心寂しいですね。こちらはどちらかと言うと体で感じる苦しみというた方が近いのかも知れません。もう一つは、行苦と申しまして、これは生まれながらに持っている苦しみでございます。誰でもが持っている。天上界に生まれて神様になっても逃げられないぐらい諸行は無常であるということです。つまり不安ということでございます。どんなに幸せになっても不安から逃れられない。いつまでこの幸せが続くのやらと思えば心配で仕方がないでしょう。幸せの絶頂にあるとき最も深いものはこの不安の苦しみということでありますね。
 すべての、我々に受けとめられる存在は無常である。そういうものをみんな含めて実は苦と言うているのです。ですから、一切は苦であると言えば、そりゃそうですね。皆苦でございます。一言でこれをまとめて言えばどうか言うたら、ままならんということだと言われますね。
 で、四苦八苦と言いまして、四苦というのは、別のまとめ方ですが、生まれることは苦である。老いることは苦である。病むことは苦である。死ぬことは苦である。
 ということはどういう事かと言えば、私の意志とは関係無いということです。生まれようと思うて生まれたのではない。だから死のうと思わずに死ぬのです。心臓を動かそうと思うて動かしているのでないから、動けと思うても止まる時は止まるし、止まれと思うても止まらん時は止まらんです。つまり、私共の命そのものが、私の意志とは関係無く動いておるということです。根本的に人生は意のままにならんものだと生まれて来た初めからそうだということですね。それが、生老病死の四苦ということでございます。
 生まれる苦しみと言うたら、何のこっちゃと思われるかもしれんが、ままならんという事が一番はっきり現れているのが、生まれるということですね。意志と関係無いということですから、これくらいはっきりしているのはございませんね。そのことが根本にあるからこそ、あらゆる苦しみが実は出て来る訳でございますね。それが苦ということですね。つまり人生はままならんのだというのが本当なんだということですね。
 ところがこれどうかしますと、なんでままならんのだろうかと思うている。何でままならんのだろうかと思うていることが、もうこれ迷うとるんです。何でならんのだろうかじゃない。初めからならんわけですね。ならんものをなるかと思うて力むものですから、余計苦しいとこいうわけです。ままならんものをままにしようと迷うちゃおらんかいとこう言うて、言うて下さるのですね。
 それから、その「ままならんままならん」というね、迷いというのは必ず原因というか仕組みがあるわけで、これを集諦とこう申します。集まると書いて、じったいと読むのですが。早い話が、アイスクリーム買うてくれとダダをこねるにたとえますと、アイスクリームが目には入らなければダダをこねなくても良かったのですがね。目に入ってもアイスクリームということが分からなければ、知らなきゃ、知っとったもんだからというわけですね。知っとってもいいんですけどね、アイスクリームを食べたことがあって、あれもう一回食べたいという欲がなければ、良かったのですが。そんな欲が何で起こって来たかというたらという風に順番にたずていったら、人間のいろんな執われというものですね。執われの仕組みというものがあって、どうしても執われてしまうという仕組みがあるんです。どうしても執われてしまうという仕組みがあるから何にでもままにしたいままにしたいと、いよいよ迷い苦しんでいかにゃならん。つまり、集諦というのは、一言で言えば執われが問題ということなんです。
 そして、自分が執われていることに気が付かんからです。執われていることに気が付けば、「また弱った、こんな事になった。」ということを乗り越えていけるのですね。あかんと言われりゃ。止めとこか、まあ辛いけれどというわけですね。それが分からんとですね。うちのお母さんは何という駄目なお母さんだと、いよいよ迷いに迷いを深めるということになるんですね。
 迷いに執われていたと気づかんからいよいよい苦しめられるのですが、執われてあることに気が付けばそれを乗り越えて安らぎを見い出すことができるということですね。これが、滅諦ということです。
 ままならんままならんという事にいよいよ苦しむ。そのことは解決のつく問題だということです。解決のつく問題だということが大変なことなんですね。大低の人は解決つかんと思うてしまうのではないでしょうか。欲があるのはどうもならん仕方がない。仕方ないと言うて。お釈迦様は、仕方ないじゃない、解決はつくとこうおっしゃるのですね。その辺が実はお釈迦様の本当に凄いところですね。
 じゃどうやったらこの執われを離れて安らぎを得ることが出来るかということなんですけれども、どうすれば出来るか。やっぱり努力が大事なんですね。じゃどんな努力が一番大事かといえば、正しくものを見るというのが一番大事なんだということで、八正道と言うて、これは道諦と申します。ここに先程申しましたね。道と言うのは目覚めるべき道理であり事実であると同時に、歩むべき道であるということですね。これは詳しくは八正道と申しまして、まず正しいものの見方が大事だということです。
 正しい物の見方とは何かと言えば、こういうことなんです。つまり、ままならんものをままにしようと執われて色々と迷いを重ねている自分の姿にしっかりと目を開くということですね。その努力が一番大事なんです。ほかのところどうしとったってだめなんです。正しく物を見るということですね。正見というですね。正しい物の見方があってはじめて正しい考え方が出て来るわけです。見方が間違っていたら、推論は幾ら正しくてもあかんのですね。そうでしょ。
 赤い色眼鏡をかけてなんぼ頭働かしても全部結局赤く見える。結論が狂うて来る。見方と いうのは一番大事。だから、こりゃ難しいんですよ。これが考え方なら。言葉で伝えられるんですが、それ以前の見方でしょ。「いやあ何という良いことを言うね」という場合でも、同じ言葉を聞いておっても。「良いこと言うね」というのと「何やあんなもの」というのとがあって、やっぱり見方というのは。言葉では伝えられん処があるんですね。この辺が難しいんです。
 だから、逆に言うと正しい考え方していこう。聞かせてもらえことをキチンと踏んで行くことによって、正しい見方を会得していこうという意味もあるわけです。これが根本だと言いながら実は、これを実現するために後があるという意味も実は八正道は持っているんです。
 正しい考え方があって初めて正しい物の言い方が出来る訳ですね。そして、次に正しい身の行いが出て来る。正業といいます。
 考えることが正しくて言うことが正しくて身の振る舞いが正しければ、これは正しい生活ということになるのですが、その正しい生活を俺は五分間出来た。そんなんじゃ駄目なんですよ。それをずっと止む事なくその道を歩み続ける。それが精進ということです。正精進。今日は精進や。そんな中途半端な話しじゃなしにね。精進というのは永久なんでして、何返生まれ変わって来ても止めん。これが精進ということなんですね。それによって、正念。
 大体、私も覚えがあるんですが、学生時代マージャンばっかしやっとったとかいうのがあるんですね。そうしますと寝てもね、夢の中でマージャンの牌が浮かんできてどうもならん。どうして駄目なのだろう。こいつをもう一つもって来ればと、そんなのばっかしでね。夢の中まで出て来る。だからそういう生活をしているとそうなるんですね。
 そういう生活をしとると心に浮かんで来ることも、まあ、おかしげなことは浮かんでこんという事ですね。正しい思いというのですが、正念。そしてそこで初めて本当に物事を正しく見るだけの心の安定が得られる。すなわち正定。
 正見があればこうなるということであると同時にそれを学んで行くことによってまた正見が成就されて、身について来るということでもある訳でございます。これらが四諦八正道ということです。

十二因縁

 このことを別の編成の仕方で説いてありますのが、十二因縁という教えでございます。一二因縁と申しますのは、我々の憂い、悲しみ、苦しみ、悩み、悶えは一体何故起こって来るのだろうか。ということですね。
 これは、先程申しましたように老病死という、私共の人生そのもの、生きておるから起こって来るんだ。生きておらにゃ苦しみはない。生きておること全体が不安の種、悩みの種、苦しみの種、悲しみの種なんですね。生きる日々の生活そのものが、苦悩なんです。その生活を老死という訳ですね。生老病死ということなんです。
 一体そういう私共の生活とか老いた病んだ、気が悪るなった。何でそういうことが成り立つか言うたら、私がという観念があるからですね。
 人間というのは厄介なもんで、人の幸せ見たらね悲しむんです。人の不幸を見たら喜ぶんです。同窓会で、いやあ、あいつらあんなにうまい事やっとるなあと情けなあなってくる。何でかと言うたら、うまい事やっとるな。良かったなあ。あいつうまい事やっとるなあ。ところがおれは、と。自分中心に「おれは」という事が出て来ると思うんです。そうすれば悲しいなって来ますよね。あの人なんというひどい病気やろか。ああ、おれはそうでなかったから良かったというのがね。本音にありまして、そういう心で反省したり感謝しとるもんだからね。あんまり役に立たん。感謝する心そのものが、根本的におかしいわけですからね。感謝や反省も何の役にも立たん。
 そういうことになってしまうのは何でかといえば、おれが、おれがいうものがある。これがおれだという。これはね。有という観念。ここに私がおるという。ね。この有という観念はどっから出て来るかと言うたらね。執らわれですわ。おれの顔、おれの銭、おれのおれの、おれの、という。いろんなもに対する執らわれが集まって「おれ」という観念ができ上がっておるのです。その「おれ」とは何かと言うたら、この子供の親でこの財布の持ち主で、というわけでそういうものの集成で出来ておるんですね。執らわれですね。
 その執らわれは何処から生まれて来るのかといえ、愛憎から生まれてくるんです。これは好きや、これは嫌い。あの人は私に良いことを言うて、あいつは厭なことを言う奴やと、快いものに愛着し、具合が悪いものには憎しみを覚える。そういう愛着があるからですね。
 それは何処から生まれて来るか言うたらね。いろんなものを見たり聞いたり、味おうたり感じるから愛着が生まれるんですね。それは何処から生まれて来るか言うたらね。五感を通してですね、物事を、色や形やそういうものを受け取るから感じるわけです。感じるから愛着を起こすわけですね。
 それは何を通して受け取るのかといえば、六処と言いまして、これは目耳鼻舌肌意識、そういうものでできているわけでしょ。 六ツの感覚器官。
 その六処で何を受け取るのか言うたら、名というのは言葉ですね。色というのは物質。言葉と物質を受け取る訳です。六ツ目の心というのが、意識の感覚器官ですが。それで受け取るのが言葉ですね。そういうのが私共の心の働きだということなんです。
 その奥には何かと言うたら、生きよう生きようという意志があるわけですね。私共生きようと する根本的な意志でございます。
 そういうことでできあがっているわけです。これらはよく考えてみますと、どれもこれも仕方のないことばっかしですね。人間生きている以上は、毛頭と免れられんことですねえ。これが最初に申しました苦諦ということですね、そのまま。同時にその苦しみはただ起こって来ているんじゃなくて、もとより私共の生きてある事実から、根本的にもう免れられんように実はなっているという事ですね。それは仕方がないと言えば仕方がないことですが、そのことが明らかになるということが集諦ということです。
 滅諦というのは、そのことに気が付けばですね。そのことが本当に見えてきたら、これは執らわれであると、これを克服して行くことができる。それに振り回されることがないということですね。どうにもならないことではなくて、乗り越えて行くことが、それが大切。
 だけどそれは、道理はそうでも、そのことを本当に身につけてゆく。執らわれだなあ。とこうね。そういう眼を身につけて行くのは、ただじゃ出来ませんでね。お釈迦様だって随分艱難辛苦せられてお悟りを開いてからも生涯やっぱりその、言わば歩み続けられた道なんですよ。そういうことから言えば、つまりこのことを本当に、そういうことに目を開いて生きて行くというのが、実は八正道だということになる訳なんですね。
 まあそれは特別なことではないんですね。特別のことではないのだけれど甚だこれ実はなし難い事でもあるという事でございます。 そのことをもっと端的にまとめましたのが、これが十二縁起とか十二因縁ですね。十二にまとめたものですね。

三法印

 それから、三法印四法印というのがある訳でして、三法印というのは、一切皆苦、これは説明せんでもお解りと思います。
 諸行は無常である。諸行と言うても一切と言うても一緒ですね。無常である。それから、諸法は無我である。涅槃は寂静である。こういうことですね。諸行は無常である。当てにならんという事ですね。無常とは当てにならんということです。当てにならんもんばっかり当てにしとるということなんですよ、ね。当てにならんですよ。私の目の黒いうちはなんていってもそんなもん、いつ白くなるかわからんです。知らずにいつ白くなるか分からん。当てにならんのですね。まあ、自分自身が大体当てにならんのですね。当てにならんものを当てにしとるもんだから、どうなるかというたら、当てはずれというて苦しまんならんわけですね。
 当て外ればっかりの人生。いやあほんまにそうですね。当てにならんものを当てにしとるからです。だけどねこれは難しいことなんで、当てにならんものを当てにせんと生きるということは、大変なことですよね。当てにならんものを当てにせんとおられんのです。誰だって当てにしとられると思うんです。あしたもちゃんと目が覚めて、おはようと出られると思っとられるでしょ。そりゃね。当てにならんいうて、お釈迦様が当てにならんと言うておられます。と言うたって、そうやそうや言いながらね、当てにしとるでしょう。
 さっき言うた様に、聞いて、「うん」と、考え方として分かるということとね、本当にそういう見方が出来るようになるということとの間には、大変な落差が実はある訳ですね。だから当てにならんものを当てにするなよということなんですね。ところが当てにならんものを当てにせんとはおられん愚かさを抱えているということなんですね。
 頼りにならんということです。俺は俺はと思うておりますけどあんまり頼りにならんです。私は言うてね必ずというているその私が段々変わって行くじゃないですか。「私は」というものはね、〃これ〃というもんはないんですね。これリンゴですと、じっと見とりゃ。段々変わって来ますね。十日もすりゃ、だんだんふにゃふにゃになるわけですね。一年もたてば風吹いたらふきとんでいく。〃これがリンゴ〃というものはないんですね。これが私というのはありはせんわけです。でも、これを守らんならん言うて力入れとるわけですね。
 頼りにならんものを頼りにしてそうして苦しんでおるという、そういう当てにならんものを、ままならんことをままにしようとし、当てにならんものを当てにし、頼りにならんものを頼りにしとる。そういう心を離れねば惑いも離れられず、安らぎも得られない。
 余りにも分かり易い教えでありますが、同時に全く以て実際には行じがたい道理であるのでもございますね。これをしかし、自ら見いだし、この道理を見い出しこれを実践していく。そういうことにもお進みになった方が、お釈迦様であった訳です。その道理は揺らぐわけのもんでないんです。ただね、いくらそうだと聞かされて、いくらそうだと思うたって、そうはなれない者は一体どうしたら良いかということなんですね。そこに実は救いということが、実は説かれておるんでございます。
 ともかくも悟りというところで大切なことは、苦しみの結果を問題にするんじゃないんですね。苦しいものを楽にするんじゃない。苦しみの原因を乗り越えて行く力を与えようというところに、悟れ悟れとこう言うてある訳ですね。原因を問題にしているわけです。こういうことが重要なポイントだと思います。

何故「すくい」か

 浄土真宗は救いの宗教と言うことでございますけれども、救いというのは、は前後しますが、救いと申しますのは、自分の力で悟れないからでしょ。悟らにゃ真の安楽にならんわけです。ねそうでしょ。それ出来ん。できんから迷い苦しむ。その迷い苦しんどる中に、尚お釈迦様が見い出された真が、私共の力となって下さる道は何かということなんですよ。
 自分の力で悟れない者にとって、如来様の悟りが、法が、力となって下さるというところに救いちゅことの基本的な意味があるんですね。
 で、救いという字は色々ある訳ですが、救それから拯ですね。それから、まあ「救済」これ「くさい」と読むんですが、救済、拯済、或は済度という言葉もあります。でこの救はどういう風に使ってありますか言うと、「苦悩の群萠を救済して」いうて、苦しみ悩みを救うんだとこういうことで使ってあります。言葉使いとしては、苦しみを知る。これは結果のほうですね。
 これに対して、拯、「拯済無辺極濁悪」というようにね、その苦しみを生み出す罪悪ですね。濁悪。拯済無辺極濁悪という悪ですね。迷いのことです。無知のその悪が問題になっています。
 一方は結果をいうてある。一方は種を言うてあるんです。拯済というてあります。まあ結局、先程申しました、因と果のその全体ですね。迷いの全体を越えさせるということでこれは「広済生死流」という言葉がありまして、私共が作っております迷いの世界そのものから脱出させると、こういうことになるんです。大体言葉使いとしてはこういう風にして使われております。
 でこの時にですね。苦悩、苦悩を救うんじゃないんですね。この人が問題で、苦悩の衆生を救うんです。苦悩を救うんじゃない。衆生の苦悩を救うんじゃない。つまり、衆生の苦しみが無くなるんでない。苦悩を離れられない、生涯苦悩して行かねばならん衆生が、苦悩のままに救われるということなんです。この場合は。苦悩の衆生を救うんです。
 例えばね、耳の聞こえない人を救うと言うたら、耳が聞こえることじゃないんですね。耳が聞こえないハンデを背負うていかにゃならんその人の人生にとって、何が救いか。とこういう事なんです。そういう意味なんです。苦悩の衆生とっての救いなんです。そして濁悪。
 つまり先程言いましたように、人の幸福を見て喜ばずに、人の幸せ見て妬むようなそんな厄介なもの。親子の間でさえそうなんだ。あんまり親が元気で「今日もゲートボールと温泉や」言うたら、いい年かっくらって元気なこっちゃいうて皮肉がでる。、気持ち分かるでしょ。親もそうなんです。あんまり夫婦仲良いとね。この頃の若いもんはなんじゃろう。というわけで自分が邪魔になったような気がする。そういう訳のもんでね。どうにもならんもんを抱えている。そうして自分で自分のそういう心が築き上げた結果を背負うていかにゃならん。そういう根性は毛頭抜けん。それを救うてくださるんだ。その根性が治るというんじゃないんですね。そういう根性持った者にとって救いとは何かということですね。
 生死。生まれた者は老いて病んで死んで行かねばならん。それ全体が悩み苦しみである。生きることそのことに惑うていかねばならん。それをどう越えさせるかということは、わかり易く言えば、『浄土真宗の生活信条』にありますように、強く明るく生き抜かせるんですね。
 まあ救いという言葉はそういう風に使われておりまして、これを聞くうえで言うと、善導大師は〃護る〃という言葉で現されたんです。阿弥陀如来が仰せられて言われることには、「汝一心正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん」、護ろうということでございますね。実は私が仏になるのじゃない仏に成れないままで仏様に護られて行く。そこに護られてある、護って下さる如来様に遇わせて頂くということが救いなんでしょ。
 自分の力ではどうしても悟りを開いて苦しみを脱出することが出来ない者だからこそ救うのだということですね。そのことがある訳です。悟りを開かねば苦しみ悩みは解決せんのだけれども、かというてその悟りが開けない。そうですね。その者にとって、仏法とは何かと言うたら、救いなんだということですね。
 じゃあ救いというのはどういう風にして、どう救うのか。どう救いになるのかということなんですが、私が悟って間違いの無い道を歩くんならですね。救いとは言わないわけで、如来が悟りを開いてこの道を歩めよと悟りを開いとらん私にも歩むことの出来る、そしてその道を歩めばどぼどぼっと迷いの道には沈み込んではいかん道を与えて下さるということなんです。具体的に言うてしまえば、南無阿弥陀仏のことなんです。如来の悟りの全徳、総ての働きを南無阿弥陀仏で与えて、悟れないままに必ず悟りに至る道。そして悟りから出て来た道なんですね。南無阿弥陀仏は。

救いの道をさとる

 悟り悟りとこう言いましても阿弥陀様の悟りはね、ただの悟りじゃないんです。私は悟ったという悟りじゃないんですね。そうではなくて、悟れない者をも救う道を悟られたんです。ここが非常に大事のとこなんですね。悟れない者の救うことの出来る道を悟ろう。そうでなかったら仏とは言わん。こういうて言われた・・・。悟れない者をも救う道として阿弥陀様が悟られたのが実は南無阿弥陀仏を以て救うということだったんですね。つまり阿弥陀様の悟りの全体が実は南無阿弥陀仏に成っておるということなんです。
 その南無阿弥陀仏は、ですから阿弥陀様の悟りから我々のところへ至り届いて来たものでありますと同時に私共が阿弥陀様の悟りの世界に至りつく道なんです。京都からここへ続いている道は、だからこそここから京都へ行ける道なんですね。念仏したら仏に成れるかどうか。そんなこと心配せんでいいんです。そんなことよりも南無阿弥陀仏の名こそ如来の世界から私共の世界に届いて来たものだ。悟ることの出来ない私の世界に如来の悟りが、そういう形で呼び掛けとなって届いて来たもんだ。そのことが本当に受け取れたら、それで安心出来るんですね。
 この如来様の悟りが、如来の悟りが私共の歩むべき道となり力と成って下さる姿は南無阿弥陀仏だという事でありますけども、その救いの姿を先程問題提起のところでありましたね。真実の利を与えて下さる。苦悩の衆生の、苦悩の衆生はね。自分が迷うて作っておる苦しみですからね。迷い断ち切らないうちに苦しみ無くなる訳が無いのです。助けようが無いのです。そうでしょ。だから苦悩の衆生を救うのに苦悩を無くそう言うたって、それじゃ悟れ悟れと言うより外には無い訳です。それでも悟れない者をどうして救うか。そこで真実の利を与えて救うた。
 真実の利とは何のことか。南無阿弥陀仏です。親鸞聖人はこれを実は光と命だとおっしゃったんですね。真実とは何か。私共にとって真に頼りとし依り処とすべき、私にとって限りない命、私が死んでも滅びることがない。私が死のうと生きようと変わることの無い大きな命と仰がれ、どんな時でも、どんなに行き詰まって真っ暗という時でも光となって下さるもの、そういうものが真実なんだ。こういうことなんですね。
 つまり、私がね悟るんじゃないんですね。私が不滅の生き方をするんじゃない。私が不滅の生き方をして行くんじゃないんです。私が悟って光を放つのじゃないんです。そうじゃなくて、限りない光がここにあった。限りない命が私のために現れて下さってあったと、それを依り処とし頼りとしその仰せに従って生きて行く。そこに実は私共の救いがある訳ですね。
 つまり苦悩の衆生、罪悪ゆえに迷い苦しみの絶えない衆生にとって救いとは何か言うたら、苦しみが減るとかそういうことじゃなくて、それじゃ解決がつかんですね。そうじゃなくてどんなに苦しい時でも光と仰がれ、どれほど迷いが深くてもこれこそが間違いないと頼りに出来るものに遇わせて頂くこと。それが実は救いなのだという事なんですね。
 正信偈の最初の帰命無量寿如来、南無不可思議光はまさにそのことをおっしゃっておるんだと思います。もう時間がまいりました。
 悟りはですから究極の果でありまして、正に命終わる時に帰らせて頂く世界が悟りの世界だということでございます。現在というたら悟れないままに如来の悟りを我が光と仰いで行く、その道が南無阿弥陀仏だということですね。それに従って色々と考えて行くということでございます。