信心とは何であったのか

7. 「信」の否定語「疑」の語義

 「しん」の対立語は「」である。現代語としての「信ずる」「たのむ」「まかす」が古語としてのそれとは、大きく異なった意味で使われているように、「疑」もまた、現代では仏教語また古語としての語義とはかなり違ったものになってきている。『真宗大辞典』によれば「疑」は猶予ゆうよ躊躇ちゅうちょの意であって、ほとけおおせを「ようこそこのわたしに」と受けとることができず、「はい、喜んで」としたがうことができないさまを言うのである。親鸞聖人の「顕浄土真実教行証文類』の総序の末尾にある「聞思もんしして遅虜ちりょすることなかれ」の「遅慮ちりょ」に当たるのである。「疑惑ぎわく」「疑蓋ぎがい」という熟語があるように、自力心、自己中心的なはからいをしていうのである。

 親鸞聖人はまた、『正信念仏偈』の中で、「弥陀仏みだぶつの本願念仏は、邪見慢じゃけんまん悪衆生あくしゅじょう信楽受持しんぎょうじゅじすることはなはもっかたし。かたの中のかたこれに過ぎたるは無し」と示された。

 これは、疑いの根は人間の思い上がりにあるという点を指摘している言葉である。自分が裁判長席にいて、如来のおおせを被告や弁護人の陳述ちんじゅつのように聞きなし、真偽しんぎさだめがたいと判決を猶予ゆうよするようなものである。

 この世のことなら、自分自身のことについてなら、阿弥陀如来より自分の方がよく知っている、分かっているという思い上がりが、自己を裁判長席にらせるのである。しかしそれどころではないと、己の無力さを痛感したときには、どうぞおさっし下さいと神仏に訴え、祈り願うのである。わたしが、うれい悲しみ苦しみ悩んで訴える前に、久遠くおんのいにしえ以来すべてを見抜き通した上で、これを背負い、五劫ごこう思唯しゆいし、永劫えいごうの修行を重ねて、救いの道を見い出し、これにれよと南無阿弥陀仏の呼び声を届けて下さった阿弥陀如来の果てしなく深い智慧のあることに思い及ばないからこその疑いのやみであったのである。

 蓮如上人はこれを指して、「得手えてに聞く」「よそ事に聞く」「ややもすれば売り心ある」聞き方であると戒められた。いわば受信拒否反応であると厳しく批判されたということになる。

 親鸞聖人はまた、『正像末和讃』懐疑讃かいぎさんに、「仏智ぶっちうたがふつみふかし この心おもひしるならば くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし」といましめられた。われわれ凡夫ぼんぷの思いやはからいをえたものが如来の智慧であることをあおぎなさいと示されるのである。このわたしのことを、本当に知っていて下さる、思っていて下さるのは阿弥陀如来であったということである。

 今日多く用いられる日常生活における「誤りではないか、いつわりではないか」という疑念ぎねん不審感ふしんかんとしての<疑>は、人間相互、或いは人間が生み出したものについてのものであって、仏との関係における「」とは異なるものである。要は、われわれの思いはからいをえた大いなる真実からの、このわたしへの呼びかけとして仏法を聞くのが「信」なのであり、それを「はい、ようこそ」とは受けとめられないのが「疑」なのである。

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