信心とは何であったのか

6. 如来の真実心に遇うことが「信心」

 「信心」を「信ずる心」と読めば、人の心のあり方を意味する名詞であるということになるが、「仏の心を信ずる」ことだと見れば、「信受しんじゅ」や「信順しんじゅん」などと同じく動詞であるということになる。

 親鸞聖人は、天親菩薩てんじんぼさつの「浄土論じょうどろん』の言葉にもとづいて、「本願力ほんがんりきひぬれば むなしくぐるひとぞなき」と示された。この「本願力に遇ふ」というのが、信心の表現である。

 また、本願寺第三代覚如上人かくにょしょうにんの「最要鈔さいようしょう』には、信心を、「まことの心」と読めと指南し、阿弥陀如来の仏心ぶっしん衆生しゅじょうさずけたもうたすがたであると押さえてある。「信ずる心」とは読むな、我々凡夫われわれぼんぷの迷いの心ではない、まったく「弥陀の仏心ぶっしん」「至心ししん」「真実心」にわせて頂いたすがた、いわば阿弥陀如来の願心・真実心を信受させて頂いた「信受仏心」の意を言うのであると示すのである。

 「要は心の持ち方次第」「ものは取りよう、考えよう」という言い回しがあるが、それらは所詮しょせん自力じりきのはからいに過ぎない。そういう人間のはからいをえた如来の真実からの呼びかけを受信じゅしんせよというのである。

 「信心」という語の出典を求めれば、諸経中にただ一か所、『仏説無量寿経』下巻の初めにある。

 「諸有衆生しょゆうしゅじょう 聞其名号もんごみょうごう 信心歓喜しんじんかんぎ 乃至一念ないしいちねん 至心回向ししんえこう 願生彼国がんしょうひこく 即得往生そくとくおうじょう 住不退転じゅうふたいてん 唯除五逆ゆいじょごぎゃく 誹謗正法ひぼうしょうぼう」というのがその一文である。

 意訳すれば、「あらゆる者は、阿弥陀如来の本願の結晶である南無阿弥陀仏の名号みょうごうを聞いて、これこそ弥陀がこのわれを呼びたもう声と受け取って喜ぶとき、即ち弥陀の真心まごころが至り届いたその即時そくじに、弥陀の浄土に生まれたいと願うままに往生はさだまり、成仏じょうぶつすること不退転ふたいてんの身となるのである。」ということである。

 この一文は、上巻じょうかんに示されてある、法蔵菩薩の昔の第十八の誓願せいがん、「設我得仏せつがとくぶつ 十方衆生じっぽうしゅじょう 至心信楽ししんしんぎょう 欲生我国よくしょうわがこく 乃至十念ないしじゅうねん 若不生者にゃくふしょうしゃ 不取正覚ふしゅしょうがく」が、今日の弥陀成仏みだじょうぶつの成果としてその通りに成就じょうじゅし、機能していることを釈迦が証言し、えたものである。

 「信心」は、膨大ぼうだいな仏教経典群きょうてんぐんの中にただ一箇所いっかしょ、『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう下巻げかんはじめの部分にある、本願成就文ほんがんじょうじゅもんと呼ばれる一文の中にのみ、出てくる言葉である。にもかかわらず、「信楽」や「信受」、あるいは「信順」に比してあまりにも多用されてきた用語である。そのもとをたずねれば、「聖人しょうにん一流の御観化ごかんけのおもむきは信心をもってほんとせられ候」という一節に代表される蓮如上人の著書、五帖ごじょうの『御文おふみ』(『ご文章』)が及ぼした圧倒的影響力によるものと思われる。

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