信心とは何であったのか

5. 法蔵菩薩の四十八願こそ如来の真実心を開示したもの

 信受すべき仏心・真実心とは如何なるものかを開示したのが、『仏説無量寿経』上巻に説かれた法蔵菩薩の誓願四十八箇条である。

 これらの誓願をどう受けとめたらよいのかについて、曇鸞大師はその著書「浄土論註』の中で、「仏、もと何が故ぞこの願を発したもうや」という問いを立てて、自らの領解を述べておられる。人ごとよそ事ではなく、この世の我らのあり様を見そなわしたればこその誓願であったと示されるのである。

 まず第一に、わが開く世界には、地獄・餓鬼・畜生の三悪道さんあくどうがないようにしようと誓われた。私たちの世界が三悪道にみちているからであろう。私たちが三悪道の生き方をしていると見通されたからである。

 広島・長崎の地獄絵図も及ばぬ惨状さんじょうを生み出したのは人間である。最も優れた頭脳を集めて原爆を作り、世界一の大国の元首が冷静な判断のもとに投下を命じたのである。人間の心のやみの中に地獄は黒々と広がっていることを証明した出来事であった。

 また、しばしば世界の各地域で発生する大飢饉だいききんは、天災てんさいのせいというより、人間が引き起こす戦乱せんらん紛争ふんそう圧政あっせいによるものである。骨と皮とにて、お腹ばかりがふくらんだえる少年の姿は餓鬼道のモデルである。餓鬼道はかち合って共に生きることをさまたげる国家エゴ・集団エゴが生み出すのである。

 世界は今も力による支配のもとにあり、弱肉強食のありさまはあらゆる所に蔓延まんえんしている。これが畜生道でなくて何であろうか。

 このような現実を、これが世の中というものだ、仕方がないとあきらめてよいのなら、この誓願は無意味である。ならずともならずとも、願わずにはいられない。なるまではやむまい、それが法蔵菩薩の不滅の願いであったのである。極楽浄土を開いて苦悩の衆生を迎え取ろうというこの誓願こそ、四十八箇条の本願の出発点だったのである。

 第二の願は、一度わが世界に生まれて三悪道さんあくどうを離れた上は、二度と再び三悪道に落ちることがないようにしようという願である。たとえ衆生救済のために三悪道の中に飛び込んでゆくことがあったとしても、自らはそれに染まることがない身とならせようということである。

 第三の願は、わが世界に生まれたきたものはみな金色こんじきに輝く身とならせよう、という願である。金色とはこの上なくすぐれた、しかも不滅の輝きを宿やどすということであろう。

 第四の願は、わが世界に生まれたきたものはみな、姿形すがたかたち差異さいなく美醜びしゅうべつがないようにさせようという願である。

 これら四つの願は、苦難くなんを離れさせ、苦しみ悲しみなげきを抜き去ろうという願である。

 次の第五から第十までの願は六神通じんつうの願と呼ばれる。わが国に生まれてきたものには、果てしない過去世からのことを見通す宿命通しゅくみょうつう、あらゆる仏たちの世界を見通す天眼通てんげんつう、あらゆる仏たちの説法を聞き取る天耳通てんにちつう、あらゆる生きとし生きるものたちの心を知る他心知通たしんちつう、一瞬の間にあらゆる世界の何処いずこにでもいたることのできる神足通じんそくつう、わが身かわいさを離れて他のもののために生きる漏尽通ろうじんつうさずけようという誓いである。単に、自分一人が苦難と苦悩からまぬがれるのみではなく、苦悩する生きとし生きる者たちを自在に救うことのできる智慧と力を得ることができるようにさせようと願われるのである。それでこそ、本当に救われたといえるのが私たちであると見抜いて下さっているのである。

 そしてその自ら救われ、他を救うことができるということこそ、さとりを得てほとけになるということなのだと、以上の十の願をまとめあげて、第十一に、わが世界に生まれ来たものは必ず仏のさとりを得させようという、必至滅度ひっしめつどの願が立てられている。

 何故仏にならなければならないのか、仏になるとはどういうことかが、ここに明確に示されている。

 仏は苦悩する私たちとは、別の世界にいらっしゃるのではない。苦悩する私たちを背負って、私たちのために立ち上がり、私たちのために生きていて下さるのだということがわかる。仏が親にたとえられ、医者に譬えられる意味もうなづける。法蔵菩薩は、みずから仏となり、私たちをも仏にならせたいと願われたのである。第十一願は究極の目的を表した願だといえるのである。

 このように、どのような者も浄土に迎え取って仏に生まれ変わらせるためには、なまじな智慧や慈悲では及ばないことは、それまでに現れた諸仏にも不可能であったことで知られる。そこで、必ずということの裏づけとして、限りない智慧と慈悲のぬしとならねば不可能であるからと、第十二には光明無量の仏となって全てを見通そうと誓い、第十三には、寿命無量の仏となって、たしげるまでは働きつづけようと誓われたのである。この光明無量寿命無量ということこそ、阿弥陀という名の意味であったのである。

 それ故、阿弥陀如来という名には、あなたを仏にせずにはおかない、光明無量・寿命無量の仏がここにいるから安心しなさいという如来の叫びが込められていたのである。

 このように広大無辺の智慧と慈悲があっても、相手である私たちの心に届かなければ、出さないままの恋文と同じである。私にかけて下さっている真実のありったけを、あらゆる仏たちがたたえ、人々のしょうえる南無阿弥陀仏の声に込めて、というよりは、南無阿弥陀仏の声になって、そむき逃げる私たちの心に届けよう、心に飛び込んでゆこうというのが第十七の諸仏称名しょぶつしょうみょうの願である。これは、母の生命力の精髄せいずいである母乳が、赤子の血となり、肉となり、力となるために流れ出るのに譬えられる。

 血となり肉となるために出た母乳なのだから、飲んでもらわなくては無になる。飲んでも胃袋にため込んだままでは、何時いつあげ戻してしまうかわからない。だから次に、わがいのちの結晶である名号みょうごうよ、一切衆生の血となれ肉となれ、光となれ力となれ、身にあふれて念仏の声となってこぼれ出よと誓われるのである。

 これが、第十八の願である。法然聖人は選択せんたくの本願・王本願・念仏往生の誓願と呼ばれ、親鸞聖人はこれを受けて、さらに至心信楽ししんしんぎょうの願・本願三心ほんがんさんしんの願・往相信心おうそうしんじんの願と名づけられたのである。真実の心など持ってはいないゆえに、信ずることなどしたくてもできない私と見抜いた上で、「はい、ようこそあなたなればこそこの私に」と、受けとる一つの信心を与えて救おうという誓いが立てられたのである。

 第二十二には、浄土に生まれさせた上は阿弥陀如来と同じ徳を得させ、娑婆しゃばに残してきた人々のためにと、浄土に安住するひまもなく迷いと苦悩の世に立ち戻ってゆくものには、阿弥陀如来の徳のすべてをそなえさせて消えせることのない身にして送り出そうと誓ってある。これは還相回向げんそうえこうの願と呼ばれる。

 浄土に往生してほとけさとりを得、永劫えいごうの苦難をまぬがれることも、迷いのこの世に帰ってきて世の人々を救うことも、全ては、そむく悪人・凡夫までも揺り動かす阿弥陀如来の真実を原動力とするのであり、私たちの思いを越えた阿弥陀如来のおはたらきであることを知ることができる。これを曇鸞大師どんらんだいし他力たりきと呼ばれたのである。「私の思いもはからいも越えて、阿弥陀様からわたくしへ、阿弥陀様がわたくしを」ということである。また、本願力回向ほんがんりきえこうとも呼ばれ、子を思う母の心が子供に届いて、子供の母をしたう心となってはたらくようなものである。如来の真心まごころが、私たちの信心となって生きるのである。如来の広大無辺の真実が、私たちの励ましとなり、勇気となり、智慧となるのである。

 ところが、「阿弥陀様がこのわたくしに」と受け取ることができず、「私の方から阿弥陀様に、私がお浄土の方へ、一歩でもさとりの方へ」という、自己中心的な発想の抜けない人々は多く、直ちに「如来様が」と受けとめる人はまれである。それ故にこそ、阿弥陀如来は、第十九の願に、心から往生を願って善を行うなら命終わるときには迎え取ろうといざない第二十願には、全てを投げ捨て、ただひとすじに念仏してわが世界に生まれようとするなら決して見捨てぬとすすめて下さってある。したい求めながらもを張ってあらがう私たちと見抜いて、そむあらがうままを、「南無阿弥陀仏」と抱き取ってゆこうとおおるのである。何という理不尽りふじんなまでの深いお慈悲であろうか。「私は、私が」の自力の疑いしんを捨てて、「ああ、ようこそこんな私を」と、ただちにおおせを喜ぶべきである。

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