4. 「信心」は聞き方、聞こえ方
①本願成就の文にのみ現れる「信心」
「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生被国 即得往生 重不退転」という『仏説無量寿経』下巻初めの一文は本願成就文と呼ばれて、浄土真宗においては、全ての経文のうちで最も重要なものと見なされてきた。親鸞聖人の著書『一念多念文意』の初めに、この文に注釈を施していらっしゃる一段がある。
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。また聞くといふは、信心をあらはす御のりなり「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は如来の御誓ひを聞きて疑ふこころのなきなり「歓喜」といふは、「観」は身を喜ばしむるなり。「喜」はこころに喜ばしむるなり。得べきことを得てんずとかねて先より喜ぶ意なり。「乃至」は多きをも少なきをも、久しきをも近きをも、さきをものちをも、みな兼ねおさむることばなり。「一念」といふは信心をうるときのきはまり(即時)をあらはすことばなり。「至心回向」といふは、「至心」は真実といふことばなり。真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は本願の名号をもって十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。以下略
これはまさに、「信心」が本願から届いた名号<南無阿弥陀仏>を、わが身への呼び声と聞くという「聞き方」であり、名号として結晶した阿弥陀如来の至心、すなわち願心を信受すること、(信受仏心)に他ならないことを示したものである。また、その「信心」は、仏心に遭って己の疑心を離れることでもあると押さえてある。これは、いわば弥陀の名号の「聞こえ方」である。
②親鸞一人がためなりけり
『歎異抄』には、親鸞聖人のお言葉として、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人んがためなりけり」とある。親鸞聖人が自らの信心のありようを示されたものであり、よそ事と受け流さず、わが身に受けられた姿である。
それを説いて教えて下さったのは釈迦如来である。『正信念仏偈』に、「如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 應信如来如実言」とある。釈迦如来が世に現れて種々に教えを説かれたが、その本懐としたもうたことは、ただ弥陀の本願一つを説き示すことにあった。悪深い者たちよ、如来真実の仰せをこそ信ぜよ、という意味である。
これを聞き、これを、「この私のためにようこそ、阿弥陀様なればこそ、釈迦如来なればこそ、ようこそ」と受けとめるばかりである。
③獲得する信心
仏心を信受することは、また「獲信」 「信心獲得」という用語でも示される。これに基づいて蓮如上人は、「信を獲れ」と示されたのである。
英語で言えばキャッチ・ザ・メッセージである弥陀・釈迦から、すなわち「仏の方より」発信された弥陀の願心釈迦の教説、すなわち号命を、わが身こそその目当てであったと受信することが信心獲得であるということである。
ただし、親鸞聖人の時代にはすでに少し用法に変化が生じていたらしく、親鸞聖人の用語例としての<たのむ>は、ほとんどが「憑む」と表記されている。「憑む」は、よりどころと仰ぐというような意味であるが。信憑という熟語があるように、「信」と「憑」に意味の上では大きな違いはないと言える。
また、「信心歓喜」とは、「至心信楽して我が国に生ぜんと欲ふ」こと、「阿弥陀如来がこのわたくしにかけて下さる真実心を、真っ直ぐ受けとめ喜んで、阿弥陀如来の国に生まれさせて頂くのだと思う」ことに他ならず、しかもそれが昔の法蔵菩薩の願、今日の阿弥陀如来の仏力のはたらきによってもたらされたものであることは疑いようがない。だからこそ、「即得往生住不退転」(即時に往生は定まり、成仏に向けて不退転の身となる)のである。
④難解語「信心」の本体は如来の真実心
「信心」は、如来を信ずる人間の心ではなく、わが身にかけられた阿弥陀如来の御心を信受するという意味の言葉である。言うなれば、信受仏心の略語であり、「信心」の「心」とは阿弥陀如来の至心であり真実心である。衆生の心ではない。
親鸞聖人は天親菩薩の『浄土論』の言葉に基づいて、「本願力に遇ひぬれば、空しく過ぐるひとぞなき」と讃えられた。信心とは、阿弥陀如来がこの身にかけて下さるまごころのはたらきを<ああようこそ>と仰ぐことである、とのお示しである。
本願寺第三代覚如上人の『最要鈔』には、阿弥陀如来が自らの「まことの心」「弥陀の仏心」を衆生に授けたもうたすがたであると押さえてある。「信ずる心」と読むな、「まことの心」と読め、人間の心の持ち方を言うのではないということである。
如来の至心、まことの心、仏心を南無阿弥陀仏の名号に込めて、衆生に届け、授けること、それを受けとることを、「信心」いうのだという指南は、漢語で言えば「信受仏心」の略語が「信心」なのだということであり、英語で言えば「キャッチ・アミダマインド」に当たるのである。
文法的に言えば、「信」は動詞、「心」はその目的語に当たる名詞である。
これを「信ずる心」と読んでしまうと、仏法を聞く側の人間の心を指すことになり、個々人の判断や思い、心持ちということになってしまう。これでは「他力の信心」という言葉は矛盾した言い方となり、混乱してしまう。 「信心」は実に難解語なのである。
⑤聞くままが「信心」 、聞こえたままが「歓喜」
本願成就文の「聞く」は、名号という音声となって届けられた阿弥陀如来の御誓いを聞くのであり、それはそのまま弥陀の仏心を信受・受信するすがたでもある。それはまた、驚きであり、心身挙げての喜びでもあるから大いなる歓喜でもあるというのである。
それ故、『顕浄土真実教行証文類』、信には、「しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふはすなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報士の真因なり。」と述べてある。
聞くのは名号であるが、それは単に音声としての南無阿弥陀仏であるにとどまらず、阿弥陀如来の本願とその成就の一部始終が、このわが身に向けられたものであったと聞こえることでもあることが示されている。そして、それだからこそ<信受仏心>して歓喜するのである。そのような聞こえ方においては疑心のまじわる余地がない故に、「聞きて疑心あることなし」と断じてある。
そしてその信心歓喜は、阿弥陀如来の本願力によって回向(施与)されたものであるからこそ、乃至一念の即時に報土往生が定まる真因でもあるという道理なのであると示し、信心歓喜の即時の往生決定を意味する「一念」には、二心なき信心という意味も含まれているから、天親菩薩はこれを「一心」と彰されたのであり、これこそ往生浄土の真因なのであるという。
⑥「聴」と「聞」
こちらの意志でききとる時は、 「聴く」と言い、自分の意志、自分の聴力をよりどころとする。聴く対象は音声である。また、自分の想定範囲を超えて、たまたま聞こえてきたという時は、「聞こえる」と言う。対象は音声である場合もあるが、さらにその奥の、相手の意中にあるものをいうこともある。相手の意向を優先して受け入れ受けとる場合は、「聞」という字で表し、 「きく」とも「きこえる」とも読む。
親鸞聖人の遺された注釈を見ると、「聴」には<ゆるされてきく>、「聞」には<しんじてきく>と記されている。どんな思いで聴こうともゆるしたもう阿弥陀如来の慈悲は、<ただ、信じて聞けよ>との願いでもあるということであろう。
⑦身に当てて聞く姿、二河白道の比喩
善導大師は、『観経疏』散善義の中で、信心のありようを二河白道の比喩に示された。はるかに遠い覚りへの道をゆく旅人の前に越えがたい障害が見えてくる。おのれの煩悩という河である。左に瞋恚の火の河、右に貪欲の水の河、中間にはあまりに狭いひとすじの白道が見えるのである。その白道は念仏往生の道、真実信心の道である。
その中で、教え主である釈迦の教えは、「この道を行け」という勧めであり、救い主である弥陀の本願と名号は、「わたしを信じてそのまま直ぐに来い、わたしが護っている」との阿弥陀如来からの呼び声であると表してある。
そして、「この勧めと呼び声を聞いた人は、<みずからまさしく身心に当たりて>道を進む」と示してある。聞こえたものを、釈迦・弥陀から自分への声であると受けとめるのである。
これはまさしく、往生浄土の教え、本願の名号の、聞き方、聞こえ方の表現である。この譬喩の意味するところは甚だ重く、深い。後段で重ねて述べたい。