3. 「信」の和訓「たのむ」 と 「まかす」
①如来が発信、わたしは受信
すでに述べたように、「信」の字には、基本的に発信と受信の二義しかあり得ない。仏教の教義に沿って言えば、発信しているのは仏陀・如来であり、受信するのは、衆生たるわたしたちである。「信ずる」も「たのむ」も「まかす」も、如来のせを受信するという意味より他はない。
その受信の仕方の特徴は、「阿弥陀如来なればこそ、このわたしを救うために、ようこそ」「釈迦如来なればこそ、このわたくしに聞かせるために、ようこそ」とわが身の上に受けとめるという点にある。
②「たのむ」信受と、「まかす」 信順
経典に見える漢語と対照すると、「たのむ」は「信受」に、「まかす」は「信順」に当
たる。まず、「ようこそと受けとめる」 =「たのむ」=「信受」が起こり、それに次いで「はい、喜んでと従う」=「まかす」=「信順」が後に続く。「信受」は初発、「信順」は後続である。
一度「弥陀をたのむ」身となった上は、生涯かけて「弥陀の願いと釈迦の勧めに従って(まかせて)生きることとなるのである。このように阿弥陀如来の真実をよりどころと仰ぐ(たのむ)身となった即時に、往生成仏は決定すると、釈迦如来が証言して下さっている。それが『仏説無量寿経』下巻初めの本願成就文である。
「諸有の衆生、其の名号を聞きて信心歓喜すること乃至一念せん。至心に回向したまへり。彼の国に生まれんと願えば即ち往生を得て不退転に住ぜん」(誰であろうと、阿弥陀如来の本願から届いてきた名号、南無阿弥陀仏を聞いて、そこに込められた弥陀の真実心を信受して歓喜するならば、その即時に彼の国に生まれたいと願うままに往生は定まり、成仏することは確定するのである。その信心歓喜は阿弥陀如来がその真実心を届けて下さった故のものであるからである)
ここに出てくる「信心歓喜」が、「弥陀をたのむ」とも、「後生たすけたまへと弥陀をたのむ」とも言い表されてきたのである。 「たのむ」とは、わが身が救われることを知って喜ぶことである。
③「たのむ」の語義
「信」の和訓としての「たのむ」は、今日多く用いられる依頼懇願の意味の「頼む」ではなく、「信む」「憑む」である。
「たのむ」という和語は、強意の接頭語<た>と、受け入れるという意味の<のむ>が合わさってできているという。「靡く」「折る」「挟む」「謀る」「依る」を、意味を強めて、「たなびく」「た折る」「たばさむ」「たばかる」「たよる」と言うがごときである。また、「のむ」は、相手の言い分を「呑む」、この子は「呑み込み」がよいなどと言うときの「のむ」である。
受信するという意味の「信」の和説として用いられた「たのむ」は、古い時代の和語としては、しっかりと受けとるというのが原義であったのである。
では、浄土真宗の教えを受信する、しっかりと受けとるというのはどういうことか。「あなたなればこそ、このわたしを」と阿弥陀如来の願いを受けとめ、それを説き開いて「信ぜよ、念仏申せ」と勧めて下さった釈迦如来の教えを「あなたなればこそ、ようこそこのわたしに」と、わが身に受けとることである。
親鸞聖人の用語例としては、『顕浄土真実教行証文類』に出る六例すべて「憑む」という表記になっている。わが心に焼きつけてよりどころとするという意味を示されたものであろう。かな書きの著作においては、すべて「たのむ」である。これら二通りの例はどちらも、「信憑」あるいは「信受」の意を表すにふさわしい和語であったと思われる。
親鸞聖人から時代が下っての本願寺第八代の蓮如上人が書写し、愛読もされた『歎異抄』(著者は聖人の直弟子唯円房)には、この「たのむ」が、十一回も用いられている。蓮如上人の用語の「たのむ」もこれを受け継いだものであると言えよう。経典の用語に照らせば、まさしく「信受」に当たると見られるのである。
④信を獲るということ
親鸞聖人は、信心を得ることを、「獲信」という言葉で表された。一方、成仏することは、『仏説無量寿経』にあるように、「得仏」という言葉で示されている。そして、果ある成仏については「得」の字を用い、因である信を得るについては「獲」の字を用いるのだと、『自然法爾章』に示された。
これは、「信受」(たのむ)が現代語で言えば「受信」であり、英語で言えばキャッチザ・メッセージに当たるという観点から見れば、実に適切な指南である。 漢語の「信」は、英訳すればメッセージであり、「獲」はキャッチに当たるからである。「信心」が<信ずる心のことであると誤解されたり、心の持ち方の問題であると解釈されたりするこを避けるのには、適切な表現である。後の方で述べるように、「信心」は、阿弥陀如来仏心を信受する<信受仏心>の意であって、<信ずる心>のことではないのである。
後世の蓮如上人は、これを承けて「信を獲れ、獲れ」と勧められたのである。
⑤「まかす」の語義
「まかす」は、現代語としては、人に任せる、委託・委任するという意味で用いられることがほとんどであるが、古くは、「信」や「順」の訓であって、「随う」や「順う」という語と同様の意味で用いられた。
親鸞聖人の残された仮名書きの著書を見ると、三通りの「まかす」 が出てくる。一つは己の心にまかせることをいう例、もう一つは「如来の御はからい、願力」にまかせることをいう例である。そして三つ目は特例的なもので、「業報にさしまかせる」という例である。いずれも随順する、したがうという意味で用いられている点は共通である。
ようこそこのわたくしにと「たのむ」のは、初発の心であるが、その上からは、後続の相として、終生「喜んでさせて頂きます」と仏意に「まかせる」のである。「まかす」は、「信順」の意を表すのにふさわしい和語であり、如来大悲の恩を知り、広大なる願力に応え報いんとする知恩報徳の志と営みを示すのにぴったりの言葉でもあったのである。