はじめに
「信心」は難解語である。現代人の常識的解釈からすれば、「阿弥陀如来、あるいは神仏の存在と力を信ずる(わたしの) 心」ということになるであろう。そこへまた、「他力の信心」と聞けば、自分の努力をさしおいて神仏の力を当てにすることとしか聞こえないのではなかろうか。
「信心」という語の出典を尋ねれば、膨大な数に及ぶ仏教経典の中でもただ一箇所、『仏説無量寿経』下巻の初めにしか現れない用語であり、言わば浄土真宗独特の仏教用語であったのである。
これを多用されたのは、本願寺第八代蓮如上人である。その著書「ご文章』や、その言行録である「蓮如上人御一代記聞書』を見れば、その頻度に驚くほどである。
「信を獲れ」とも、「後生たすけたまへと弥陀をたのめ」とも言い、「当流には、これよりほかの法門はなきなり」とまで強調して、「信心」の一語を世に流布させたのは、この方であった。
さかのぼれば、本願寺第三代の覚如上人は、”親鸞聖人以来伝承された最重要事項”という意味である『最要鈔』という著書の中で、「信心は<まことのこころ>と読むのである。わたくしたち凡夫の迷いの心ではなく、阿弥陀仏・釈迦仏の仏心である。その仏心をわたくしたちに授け届けたもうたところを信心と呼ぶのである」と示された。これを、私たちの立場から言えば、救い主阿弥陀如来・教え主釈迦如来の仏心・仏意を信受することを意味するのが「信心」であるということである。言うなれば、「信心」とは、「信受仏心」の略語であるというになる。また、如来の方から施与されたものという意味で、「他力の信心」でもある。
また、浄土真宗において、「信ずる」・「たのむ」・「まかす」が、「信心」と同様に何より重要な言葉であることは論を待たないであろう。しかし、日本語としての用法や語感は時代とともに変化してきていて、現代では法然聖人・親鸞聖人、そして蓮如上人の時代とは大きく異なってきている。その点についての点検と考察を抜きにしては、聴聞も伝道布教も曖昧なものとならざるを得ない。
現代語の「信ずる」は、当人の主観的な判断を意味するものと見なされて、「本当だと思うこと、思い込むこと」という意味で用いられることが多い。
また、「たのむ」と言えば、依頼・懇願するという意味、「まかす」と言えば、委任・委託するという意味に用いられるのが一般である。
しかし、これらは浄土真宗における伝統的用語としての、「信ずる」「たのむ」「まかす」の元来の意味とは、余りにも大きく異なっているのである。
「信ずる」とは、本願念仏の教えをわが身に向けての如来からの仰せと受けとめることである。「たのむ」とは、「阿弥陀如来なればこそ、釈迦如来なればこそ、ようこそこのわたしをたすけようと、ようこそこのわたしに聞かせようと」と、わが身に受けとめることである。「まかす」とは、「はい、喜んで仰せの通りに、御意のままに」と、したがうことである。
「信心」と同じ意味内容を表すものとして用いられてきたこれらの三語は、相手が発信したところを受信・受容するということを表すものであったのであるが、現代語では、逆転して、自分の判断に基づいての意志と発言、それに伴う態度という意味に変化しているのである。
この用語上の原意と現代語との落差は、浄土真宗における聞法と伝道において、危機的と言っても過言ではない程の深刻な問題である。それ故、本稿ではこれらの四つの語の意味と、それが担う役割について、私見を述べたいと思う。