14. 「信」のありようを示した善導の二河白道の譬喩
天親・曇鸞二師の指南を受け継いで善導大師は、本願他力の信心のありようを二河白道の譬喩に表された。
生死の迷いを離れ、覚りを目指して西に向かって進む修行者の前に越えがたい障害が見えてくる。それは一本の大河なのであるが、北側の方では貪欲の水の河であり南側では瞋恚の火の河となっているのである。その中間には細い一筋の白道が横切って両岸をつないでいるのであるが、足の幅ぎりぎりの四五寸程しかない。とても渡れそうにないととまどう旅人は、この時、自分が孤立しているのを見て盗賊や猛獣たちが襲いかかろうとしていることに気づく。もう後戻りはできないし、とどまる猶予もない、この道を進めば火の河か水の何かに落ちてしまうであろう。いずれにしても死をまぬがれないのなら、この道を行こう、道がある以上は可能性があるはずだと決意する。その時、背後の東の岸から、「この道を行け、死ぬ心配はない。とどまれば死ぬぞ」という教主釈迦の発遣の声(浄土三部経の趣意)が聞こえる。そしてそれに重なるように、彼方の西の岸からは、「迷わずにそのまま来い。わたしが護っている。水火の河に落ちることを恐れるな」と、救主弥陀の召喚の声(本願・名号の趣意)がする。二つの声はまさしくこの我に向けられたものと聞き取った旅人は、その声の通りに道を進んで西の岸に到って、苦難を離れ、善き友たちと遇って喜び楽しむのである。
仏道は遙かであり、誰もがそれを目指す旅人であり修行者である。仏道をさまたげる越えがたい障害は自らの煩悩である。それは、ある時は盗賊となり悪獣として命の時を貪り奪う。自分自身の煩悩がもたらす害毒からは、余人の誰も護ってはくれない それを逃れて仏法の道を尋ねようとすると、今度は行く手をはばむ河となって尽きることなく果てることのない食欲と瞋恚の煩悩が前をさえぎるのである。その中間の、貪欲にかたよらず瞋恚にもかたよらない隙間に、わずかな可能性が白い道として見えるが、それはわずかのごまかしも許さない真実の道であって凡夫の渡れる道ではない。道を踏み外して貪欲・瞋恚の水の河か火の河のいずれかに落ちて溺れ死ぬ他はない。
ここで、「死」に譬えられたのは、生命を失うことではない。仏となって一切衆生を救おうという菩提心を失ってしまうことである。菩提心こそが仏道を求める菩薩の「いのち」であるという大乗仏教の基本精神を表そうした譬喩なのである。
往くも死、返るも死、留まるも死、渡りがたい道とはいえ、他に道はないのである。この道を往くより他はないと思い定めた時、その道、真実の道・念仏の道は、釈迦が往けと勧めたもう道であり、もとより弥陀の来いとよびたもう道でもあったのである。こちらから歩いて行ける道ではなく、向こう岸から届いている道、踏みはずしようのない大道であったのである。煩悩のただ中に開けた道、釈迦・弥陀の仰せに順せて歩む道である。
そして、この一心帰命の信心定まると同時に、「不可思議の願力として仏の方より治定せしめたもう」(蓮如上人『聖人一流章』)ということが、曇鸞大師の言われる他力の救いということである。信心定まるとき、往生また定まる。人間の思い・はからいを超えた阿弥陀如来の大いなる真実、本願から届くはたらきによって、自ずから、浄土に往生する身に定まるのであるという。このことを、曇鸞大師は他力の救いと示されたのであるが、その他力ということを「 仏の方より」という言葉で示されたところに、平易な表現を目指された蓮如上人の苦心のあとが窺われる。
この「仏の方より」という、蓮如上人による「他力」の表現に注目したのが、俳人小林一茶であった。「なむあみだ 仏の方より 鳴く蚊哉」・「涼しさは 仏の方より 降る雨か」と詠んでいる。
はじめの句の「鳴く蚊」というのは、明けても暮れても喉の奥で念仏する自分の姿を、蚊の鳴くのに譬えたものであろう。それが仏の方よりの御もよおしであると喜んでいるのである。
あとの句は、炎天の夏に降る夕立の涼しさを、阿弥陀如来の眼から降る慈悲の涙雨のゆえであると尊び喜んでの句である。