13. 信心と利益は同時
①目的と手段
一般に、「ご利益」と言えば、神仏に願いごとをする、何かを祈る、あるいはおまじないをすることの結果として、当人の願望がかなえられることを指すようである。しかし、煩悩に基づく迷いと苦悩の解決を目指すことを最重要課題と見なす仏教においては、覚りの智慧を得ること、もしくはその覚りの智慧に近づくことより他に利益と見なされるものはない。人々の思い描く願望そのものが煩悩の表れに過ぎず、一旦はその願望がかなえられたとしても、煩悩の上に咲いた仇花であるに過ぎないと見られるからである。
自分の目指す目的を果たすための手段として、神仏への祈りやまじないを用いるという発想そのものが人間の傲慢であったとも言えよう。
② 利益とは救い
仏教で言う「利益」は、別の言い方をすれば、如来による救済<救い>ということである。
これについては、「信ずる者は救われる」という言い習わしがある。さまざまな解釈がありうるが、<信ずるのは本人の主観的な思い込みに過ぎないが、救われたと思うか否かも、同様に本人の受けとり方次第のことがらであって、客観的にはただの妄想に過ぎない>という意味にも取れる。しかしまた、<信じて疑い得ない大いなる真実に出会い得たとしたら、そのこと自体が救いそのものであると言える>という意味にも取れるであろう。後者の意味に取るならば、信心を獲ることには、阿弥陀如来の利他(衆生を利益する)のはたらきが注がれていたわが身であったと知るという意味内容が自ずから含まれていることを言い当てた言葉であると言い得るであろう。
また、前者と類似して、<如何なる神仏であろうと、またおまじないであろうと、心から信じていたならば、そのうちに好いことがあるだろう>という解釈もあり得よう。こちらは、さまざまな諸宗教は根拠のない主観主義的妄想の体系に過ぎないが、気休め的な効果があることは否定できないとする無宗教主義的発想であると言えよう。
③ 他力の救いは信益同時
浄土真宗においては、すでに述べたように、<信心歓喜する即時に往生は定まる>という本願成就文(釈迦の証言)の通りに、信心を獲ると同時に、往生成仏は定まるという広大な利益をも得るのである。
このことは、信心と利益は同時に与えられる(信益同時)ということである。 信心の中にすでに救いの全体が含まれ具わっているということである。信じたら救われるというのではなく、如来の救いの全体を信受する他力の信心なのである。
親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願力によって恵まれた信心は、浄土から届けられたものであり、将来に浄土に至っての成仏と衆生救済を約束する「浄土の大菩提心」であると宣言された。覚りを求め一切衆生の救済を願う菩提心を、信心という形で獲ることこそが、究極の利益であることを示そうとされたのである。
また、信心を獲た人は、現世のただ中に生きる凡夫の身ながらに十種の利益を得ると述べられた。要は、安らぎと勇気、励ましと喜びを見いださせて下さるということである。それが、信心に具わる利益であると示されるのである。