12. 「願う」「祈る」の自力のはからいとは逆方向の喜びの願う
他力に関連して、確認しておくべきことは、救いの代償としてこちらから信仰を捧げるという自力の発想を捨てて、如来の方から、仏の方より発信されたものを受信するのであるということであり、これを親鸞聖人の師法然聖人は、「如来よりたまわりたる信心」と言われたということである。信心は捧げるものではなく、もらうものである。これは、いわゆる「願かけをする」「祈る」とは逆方向である点に注意すべきである。
本願他力の道には、いわゆる「祈る」ことも「願う」ことも、もはやあり得ない。わたくしたち凡夫が、祈ったり願ったりするのは、貪欲。瞋恚・愚痴の心ゆえであり、憂い・悲しみ・苦しみ・悩み・悶えがあるからであるが、法蔵菩薩がそのすべてを見通して私たちに代わってこれを背負い、五劫に思惟し永劫に修行して、遂に願力無窮の救済者阿弥陀如来と成って下さったと知らされた上は、「願う」も「祈る」も、すでに用済みのことなのである。
ちなみにいえば、浄土真宗において言われてきた「後生を願う」「後生願い」という言葉は、<祈願する><乞い求める>という意味の「願う」ではなく、「信楽」「願業」「歓喜」などと同義の「願う」であって、<わが身の往生は疑いなしと信じて喜ぶ>という意味である。「願う」という言葉で「喜ぶ」ことを表すのが真宗独特の伝統的用語法であった。「<願生>はよろづの衆生、本願の報土へ生まれんとねがへとなり」(親鸞聖人著『一念多念文意』)とあるのも、その意である。衆生が願う前に、阿弥陀如来から願われ釈迦如来から勧められていたのであって、必ず果たされる約束であったと知る上は、喜ばせて頂くばかりであるということである。