信心とは何であったのか

9. 『恩徳讃』は「おまかせ」の讃歌

 親鸞聖人は、『正信念仏偈』の偈前げぜんもんにおいて、「孝子こうし父母ふぼし、忠臣ちゅうしん君后くんこうして、動静どうせいおのれにあらず、出没しゅつぼつかならずよしあるがごとし。恩を知りて徳を報ず」と示された。意訳すれば次の通りである。

 (知恩報徳というのは)親孝行な子や忠義な臣下が親や主君につかえる態度が、何事についても、親の思いや主君の意向をんでのものであって、決して自分本位ではなく、その動静どうせい進退しんたいは、親の思いや主君の恩を知ってそれにむくいる趣旨のものであるようなものである。

 これは、「一心に帰命きみょうしたてまつる」という天親菩薩の信心表明について、曇鸞大師どんらんだいしが付けられた注釈の言葉を引用したものである。仏意・仏願を信受して、おのれはからいを捨て離れ、おおせのままに、すなわち「一心に」喜んでつかしたがうことが「帰命きみょう」であり、「まかせる」ことであるということを示されたものである。

 また、親鸞聖人は『正像末和讃』五十八首の最後の和讃で、「如来大悲の恩徳おんとくは身をにしてもほうずべし 師主知識ししゅちしき恩徳おんとくも ほねをくだきてもしゃすべし」とうたわれた。

 これまで述べたことをまえれば、「にしても、ほねくだいてでも報謝ほうしゃさせて頂こうではないか」と呼びかけられた『恩徳讃おんとくさん』こそ「おまかせの讃歌」であったのである。

 この和讃に出てくる「ほうずべし」「しゃすべし」の、助動詞「べし」は「に」し、「ほねくだいて」報謝してもやり過ぎではない程の如来大悲の恩徳であったと、如来大悲の広大さをたたえる<相応そうおう>の意を示す「べし」であり、同時に、それ故に自らはそれに相応そうおうしい報謝をしたいものだ、皆様もどうぞわたしと共に、と自らの意志表明と読者への呼びかけをふくむ「べし」である。当然・推量・可能・命令・などの意の「べし」ではなく、意志表示の「べし」なのである。

 小林一茶は、「涼しさや 弥陀成仏みだじょうぶつの このかたは」とんだ。もはや、阿弥陀様にして下さいと、願うことや頼むことは何もない。阿弥陀如来には、法蔵菩薩のいにしえよりこの方、すべきことは全て成し終えて頂いてある。このわたしは、「涼しやな」と喜びしたがうばかりであるというのである。

 だから、「涼風も 仏任ぶつにんせの 此身このみかな」ともんだのである。ここでは仮に「任」の字を用いてはあるが、これはこの時代の慣例であった<当て字>であって、「ゆだねる」「任せる」という意味で用いたものではない。主導権はあくまで如来の側にある。「しんす」あるいは「じゅんす」と書くべきところである。阿弥陀如来の願いと仰せに従うこと随順することの安らかさ、涼しさを詠んだのである。

 「信順する」「まかす」とは、因幡いなば源左げんざが言い残した通り、自らが進んで「させてもらう」報恩のいとなみなのであって、如来様にしてもらうことではないのである。現代語の「お任せ」とは余りに違うのである。

※ 小林一茶

本名は小林信之、通称弥太郎、宝暦十三 (一七六三)年、信濃しなのの国、水内郡みのちぐん柏原に生まれた。父弥五兵衛は篤信とくしんの真宗門徒であった。十五歳で江戸へ出て俳諧師はいかいしとなる。五十一歳で郷里に帰る以前から、一茶も法味あふれた句を多く残していて、その篤信とくしんぶりが知られる。六十五歳で死去。

因幡いなば源左げんざ

本名は足利喜三郎、天保十三(一八四二)年に生まれ、昭和五年に八十九歳で没した。所は因幡いなばの国、気多郡山根けたぐんやまね村、今の鳥取県気高郡けたかぐん青谷町山根である。篤信とくしんの念仏者として名高く、「させてもらう」「させていただく」というそれまでにはなかった言い回しを始めたのはこの人であるという。「勿体もったいのうござります。ようこそようこそ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」が口癖くちぐせであったと伝える。

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