信心とは何であったのか

8. 信の表明の範となった天親の言葉

 信ずるとは、ようこそと信受しんじゅ(たのむ)し、喜んでと信順しんじゅん(まかす)することである。自らの信を表明し、後世こうせいに模範を示したのが、天親菩薩の「浄土論』の初めにある言葉、「世尊我一心せそんがいっしん 帰命盡十方きみょうじんじっぽう  無礙光如来むげこうにょらい 願生安楽国がんしょうあんらくこく」であった。

 これは、『仏説無量寿経』上巻の、 法蔵菩薩の誓願(第十八願)の「至心ししん信楽しんぎょうして我が国に生まれんとほっへ」というもんと、さらに下巻初めの本願成就文ほんがんじょうじゅもん(法蔵菩薩はすでに成仏して阿弥陀仏となり、永劫えいごうの昔以来の誓願はその通りに実現しているとの釈迦の証言)の、「本願の名号みょうごうを聞いて信心歓喜かんぎする即時そくじに往生成仏はさだまる。阿弥陀仏からの至心ししん回向えこうによる故である」という文の通りに対応たいおうし、随順ずいじゅんした(従った)ものに他ならない。

 阿弥陀如来の誓願の通りに、釈迦の証言の通りに受けとめしたがうことを表明した言葉。信心の手本となった言葉、いわば天親菩薩の<領解出言りょうげしゅつげん>ともいうべき、『浄土論』初めの言葉を訓読くんどくすれば、「世尊よ、われは一心に盡十方無礙光如来じんじっぽうむげこうにょらい帰命きみょうし、安楽国に生まれんと願いたてまつる」となる。

 また、これを意訳すれば、「このみ教えを説き残して下さった釈迦牟尼世尊に申し上げます。あなたのおおせをこうむりましたこのわたくしは、あなたのお勧めの通りに、<わが願力がんりきに帰せよ、わが安楽国への往生を願え>との阿弥陀如来の告命こくみょう帰依随順きえずいじゅんして、安楽国に生まれさせて頂くのだという喜びを力として、これからを歩ませて頂きます」ということである。

 これをうけけて、蓮如上人が示された信心のありようは、「後生たすけたまへと弥陀をたのむ」ということであった。その意味は、「ようこそこのわたしの後生をたすけると仰って下さいました」と受けとめるということ、信受することである。「たすけたまへ」は、「いらっしゃいませ」と同じく、歓迎と喜びを表す言葉である。「どうか、おたすけくださいませ」とこちらから発信するという依頼や懇願こんがんたぐいではない「弥陀に頼む」のではなく、「弥陀をたのむ」のである。

 その「憑む」は、ここでは「一心に」に表されている。おのれはからいを捨てて、「弥陀が願いたまい、釈迦がすすめたもう通りに」ということである。

 また、よく耳にする「阿弥陀様におまかせ」というのは、阿弥陀如来の願われた通りに沿したがうこと、つまりは如来のめいする「帰命きみょう」のこと、「信順しんじゅん」のことを言うのである。自分は何もせずに阿弥陀様にさせようというのではない。「まかす」のではないのである。自分から進んで、「わたしにさせて下さい」と、「させて頂く」ことである。

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