9. 信心にそなわる利益と報恩の称名。
信心を獲ることは、如来の真実に遇うことであり、そこには感動と喜び、大いなる勇気づけと励ましがそなわるのである。そしてそれにとどまらず、いかに至らぬ身とはいえ、この私にこそ如来は願いをかけてくださっていた。 「お前が仏になって、世の光となってくれよ。必ず浄土に引き入れて仏にするぞ」という阿弥陀如来の仰せであると知った上には、精一杯に如来の願いに応えたい。また、この如来の大悲を他の人にも知ってもらいたい、伝えたいという念も起こってくるのであり、その人なりの行動が生まれるはずなのである。
これが報恩、あるいは知恩報徳と呼ばれる利益である。<有り難や、尊や>と念仏することは報恩である、と説かれてきたのもうなづけるのである。そしてそこに、如来の大悲を凡夫である私が行ずる、如来の救済の業に私たちが参加させていただくという意味もそなわるのである。
親鸞聖人が、 天親菩薩のお言葉に沿って、「本願力に遇ひぬれば 空しく過ぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」と讃えられたのもこのことであろう。
阿弥陀如来がわが身にかけて下さってある深い願いとその大いなるはたらきを聞かせて頂き、知らせて頂いた上は、空しくいのちの時を通りすぎてしまうことはない。煩悩の濁流に譬えるべきこの身もこの心も、抱きいれて下さる大海のごとき阿弥陀如来の真実功徳の中に流れ入って一つとなる如くであるというのである。
親鸞聖人はまた、「信心の智慧」といわれた。信心の本質は如来の智慧が届いたものだからであろう。善導大師の言葉を引いて、「自信教人信」、自ら信じ、人にも勧めて信じさせることこそ、如来の願いに応え、愚かな凡夫の身のままに、一切衆生のために生きる報恩の道であるとお示し下さってある。
そして「信心よろこぶそのひとを、如来とひとしと説きたまふ」と讃えられた。阿弥陀如来の願いに沿って釈迦如来が説かれるには、信心を獲て喜ぶ人には諸仏如来と等しい徳が具わるのであると。
救い主阿弥陀如来と教え主釈迦如来は、私たちに信心の智慧を与えて、自ら道を切り拓かせ、信心の智慧の人を諸仏如来にも等しい世の灯火として送り出して、人の世を照らして下さるのであるということである。
現代社会の矛盾や時代のさまざまな問題を生み出したのは神でも魔物でもなく、私たち人間であり、人間の愚痴が作り出したのである。解決してゆかなければならない責任は、神にでも仏にでもなく、私たち自身にあるはずなのである。それを人間以外のものに祈ったり願ったりしていては筋違いというものである。
願えども願い通りにならぬ自分があり、世の中の現実がある。しかし、ならねどもならねども、願わずにいられない、いや願われていると知る中で、「どうせ」などと投げ出すことなく、力を尽くして倦むことのない生き方をしたいものである。
私たち一人一人が信心の行者になって、念仏を力に、精一杯に自らと現代の課題を背負って生きることより他に、他力もなければ救いもなかったのである。「どうか、信心の智慧の行者になってくれよ」、それが如来が私にかけて下さった願い、南無阿弥陀佛に込められた願いだったのである。