8. 聞くままが信、信ずるままが往生決定
法蔵菩薩の誓願が実現して阿弥陀如来の救いの力が生きてはたらくこととなったわけであるが、その何よりの要は南無阿弥陀仏の救いということである。『仏説無量寿経』下巻の始めに、釈尊は次のように説き示された。「十方世界のガンジスの砂の数ほど多くの仏たちは、みなともに阿弥陀如来の不可思議な救済力をほめたたえられる。あらゆる者は、その仏たちのほめたたえ勧めたもう南無阿弥陀仏の名号を聞いて、信心歓喜するたちどころに、阿弥陀如来のまごころが届いてきたわけであるから、かの国に生まれたいと願うままに往生は定まり、かならず仏の覚りを得る身と確定するのである。ただし、仏法に背を向け、反逆すること未だやまぬものは除く」
今、釈迦如来がこのように阿弥陀如来の徳を讃えたもうことも十方の如来と同様であって、しかもそのままが阿弥陀如来の願力のしからしめるところであるから、釈迦・諸仏のほめ勧めたもう南無阿弥陀仏の名号は、そのままが阿弥陀如来の名乗りであり、呼び声であるわけである。その名号を、このわれを呼びたもう阿弥陀如来の声と聞くことが信心であり、信心はまた自ずから歓喜であるとお示し下さっているのである。
信心は、阿弥陀如来の私にかけてくださるまごころが届いたすがたであるから、「如来を信ずる私の心」ではない。「私にまで届かずにおかなかった如来様のまごころ」ということである。だから、信心を「まことの心」呼んで、「信ずる心」とは言わない習わしである。その阿弥陀如来のまごころのありったけは南無阿弥陀仏の名号となり、釈迦如来の勧めたまい、人のえる声となって下さっているのであるから、信心の中身は南無阿弥陀仏の名号より他はなく、南無阿弥陀仏の名号の中身は阿弥陀如来の真実心である。
浄土真宗においていう信心とは、私の祈る心や、願う心ではない。間違いないと確信する私の判断でもない。「ああ、この私に仰って下さっていたのですね。この私を呼んで下さる声だったのですね」と受けとめることである。阿弥陀如来の真実を釈迦如来が、教えとして説き、南無阿弥陀仏と発信してくださったところを、我がためにようこそと受信することである。そしてそれは、取りも直さず、人間の思惑を越えた大いなる真実に遇うこと、大いなる真実からの呼び声を聞くことでもある。聞くままが信心なのである。心の持ち方の問題ではなく、心を越えたものを聞くのである。もとより往生させずにはおかないという大いなる真実を聞くのであるから、聞くことがそのまま、往生の定まることでもある。
親鸞聖人の用語には、「信心獲得」「獲信見敬大慶喜」といってある。英語に置き換えてみるならば、「獲」はキャッチであり、「得」はゲットである。信とはメッセージである。「信心」は、「アミダズマインド フォアミー」ということになる。信心を獲得することは、「キャッチ ザメッセージ フロム アミダ」であり、「キャッチ アミダズマインド フォア ミー」ということになろうかと思われる。
天親菩薩は自ら得た信心を、「世尊我一心 帰命尽十方無碍光如来 願生安楽国」と述べられた。「このみ教えを説き残してくださった釈迦如来に申しあげます。あなたの仰せを今こうむりましたこのわたくしは、あなたの仰せの通り、十方世界ことごとくを照らしてさまたげられることのない光である阿弥陀如来の御心のままにしたがいたてまつって、阿弥陀如来の安楽浄土に生まれさせていただくのだと喜び努めさせていただきます」という意味である。これこそが浄土真宗の信心、他力の信心のお手本とされてきたのである。