7. 十劫と十万億仏土
最初に述べたように、ここに説かれてあることは、全体が姿形も言葉も越えた不滅の真実を、あえて姿形と言葉の上に表現して下さったものであるから、 法蔵菩薩の願いはもとより成就するに間違いのない真実そのものであったわけである。
その点から考えると、十劫の昔の成仏ということや、西方十万億仏土の彼方の極楽浄土と示されてあることの意味もおのずから受け取れるであろう。
劫とは長い時間を表す単位で、一説には、四十里立方の大岩を、三年に一度、天人が羽衣の裾でこすって、この大岩が麗滅してなくなるのに要する時間を一劫とするというから、途方もない長い時間を指すわけである。
一劫の間には、我々の住むこの大宇宙が出来たり壊れたりを浜の真砂の数ほど繰り返さねばなるまい。その意味からすれば、私たちにとっては、「思いも及ばぬ昔からすでに聞けよ信ぜよと呼んでいて下さったのだ。それなのに私は、耳を塞ぎ背を向けて逃げつづけてきたのだ。何とお恥ずかしくもったいないことであろうか」ということになる。
しかし一方阿弥陀様からすれば、願いを定めるだけにすら五劫を要し、不可思議兆載永劫の修行を重ねた上のことであるから、「喜んでくれよ、ついに今し方、わたしは阿弥陀仏となった、ついに汝を救う力をそなえたのだ」ということになるであろう。
西方十万億の仏土を過ぎたところに安楽と名づける世界があるというのはどういうことであろうか。西方は日の沈む所、鳥たちが帰るところである。また、三千大千世界すなわち干の三乗倍である十億の世界に一人ずつの割合で仏陀が現れたもうということで、一仏土とは十億の世界のこと、十万億仏土とは十億の二乗倍の世界を指すことになる。その十億✕十億の世界を過ぎたところに安楽浄土はあると説いてあるわけである。
まさしく私たちからすれば、想像したこともなく、考えてみようもない程に遠い所であるといわねばならない。ところが『阿弥陀経』には、その極楽浄土の人々は、午前中の食事の前に十万億の仏たちを供養して回られるといってある。
つまりはお浄土の阿弥陀様からすれば十万億仏土の彼方といってもすぐ近くに過ぎないということである。私たちからすれば、阿弥陀様もお浄土も「思いも及ばぬ遠い存在」でありながら、阿弥陀様からすれば、「何時もおまえのそばにいるのだ。何もかも見ている、聞いている、わかっているのだから、何があっても嘆いてくれるなよ」ということであったわけです。
これはいわば、迷いの中にいる私と大いなる真実との関係を象徴的に表したものであると思われる。元来、極楽浄土とは覚りの世界にほかならず、覚りの世界の広大さ・尊さ・安らぎ・よろこび・気高さをイメージ表現したものであるわけである。疑うことを永く忘れて、ほれぼれとうなづかずにおられないところである。