4. 久遠の願い
釈迦如来の覚られた不滅の真実は、色なく形なく、言葉で表しようなく、心でとらえようのないものであった。迷いの中にいる私たちには想像してみようもないものである。私たちから求めることもない。 わたくしたちが求めるのは、自分の願望を果たす道であり、苦悩を逃れる術であって、真実を求めているわけではないのである。
ところが、釈迦如来は、自らの覚りの智慧に立って、迷いの中に惑う万人のために、その真実を私たちにも受け取れるようにと、象徴的表現をもって説き示して下さったのである。それが、浄土三部経に示された阿弥陀如来の救いの教えである。
『仏説無量寿経』によれば、この娑婆世界のみならず、十方世界に数限りなく現れたもう仏も菩薩も仏弟子たちも、全ては阿弥陀如来のはたらきによって出現するのであり、世に仏法の存在するのは阿弥陀如来の浄土から送り届けられてのことである。釈尊が道を求められたのも、遂に覚りを開かれたのも、生涯かけて人々に安楽の灯火を掲げたいと伝道の旅に日を送られたことも、阿弥陀如来の真実に揺り動かされてのことであった。
今、釈迦如来は自分を揺り動かしてやまなかった大いなる真実を、阿弥陀如来の本願と修行、それによって開かれた浄土、そこから届けられる南無阿弥陀仏の名号として説き開かれるのである。
思いも及ばぬはるかな昔、一人の国王が世自在王仏という如来の説法を聞いて感動し、自分もまたこの如来のごとく覚りを得て、光り輝く者となり、世の人々の光となりたいという志を抱いた。そして王位を捨てて出家し、法蔵と名乗って再び世自在王仏のもとを訪ねた。政治力でも経済力でも権力でも武力でも解決しない問題を抱えているのが人間であり、心に燃える真実がないかぎり、どんな快楽も豊かさも人間を光り輝かせることはできないということに気づいたからである。
世自在王仏の徳を讃えるとともに、自らもまた、いかなる苦難も踏み越えて仏となって生きとし生きるものたちの苦悩の本を抜きたいという決意を述べ、導きを請う法蔵菩薩に対して、世自在王仏はそれまでに世に現れたもうた二百十億もの仏たちの足跡をお示しになる。どのような願を立て、どのような努力によって、どのような世界を開き、どのような人々を、どのように導き、どのような利益を与えてついに覚りを得させたもうたのかを具にお示しになったのである。
法蔵菩薩はこれをことごとく学び取った上で、自らは何を願い、どう救うのかを思い定めるために深い思惟に入られた。思惟を凝らすこと五劫という途方もない時を経て、ついに広大無辺にして不滅の誓いが立てられたのである。
では、なに故にそれほどに永い思惟が必要だったのか。その理由は、思惟の結果立てられた四十八箇条の誓願の内容を見れば、自ずから知られる。二百十億もの仏たちの智慧は底なく、慈悲もまた果てしないものであったが、それでも救えなかった余りに多くの者たちがいたことに目を向けられたからである。
どんな仏も救いようがなかった人々とは、一体どのような人々だったのであろうか。それは、例えばどんな名医も、どんな妙薬があっても治しようがない病人のようなものである。それはどんな病人か。自分が病人だと気づかない故に、医者にかかろうとしない病人や、もしくは、医者に診てもらいながらも治療を拒否して受けず、薬を飲もうとしない病人である。これでは、治しようがないのである。
自分が迷いの中にいることを知らず。仏の教えを聞こうとせず。聞いても従わない者はどんな仏も救いようがないからである。諸仏の智慧も慈悲も及ばない者、法に乖き真実に背を向け、仏の手から逃げる者こそ、救いようのない者であり、他ならぬ私達のことであったのである。そんな者をどうやって救おうというのか。どうやって、かからなくても治せる医者になり飲まなくても効く薬を与えようというのか。五劫どころか、万劫考えてみても、そんなことは所詮不可能なのではないか。そんな途方もないことを考える人などいるはずはあるまい。しかし、法蔵菩薩は、その不可能を可能にする道を見い出せなければ、数知れぬ罪悪深重の凡夫たちを救うことはできない、その道を見い出すまではこの座を立つことはないと、思惟に思惟を重ねられたのである。全ては他ならぬこの私たちのためであった。
そしてついに、五劫思惟の末、不可能を可能にする道、驚くべき救いの道が見い出されたのである。それは、その気はなくても、また逃げても背いても否応なく、耳から流れ込む南無阿弥陀仏の名号となって、あらゆる諸仏が勧め、人の称える声になって、耳から心へ忍び込んで、耳の奥に、心の中に住みついて、疑いの闇を抱いて閉ざされた心の扉を内側から開いて、光となって射し込んで救おうというものであった。南無阿弥陀仏は、背き逃げるわたしを呼び醒す声であったのである。
これは、五劫思惟の果てに誓われた誓願、第十七願の諸仏称名の願、第十八願の至心信楽の願に示されたところである。
親鸞聖人は、「弥陀の光明は遍く十方の世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」という『仏説観無量寿経』の言葉を承けて、「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそははし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(『浄土和讃』弥陀経讃)と讃えられた。そして、その中で、「摂取不捨」ということについて、「摂はものの逃ぐるを追はへとるなり」という解説を付けられている。これはまさしく前述の誓願の意を顕したものである。
まことに思いもかけぬことである。不可思議の至りである。「有り難い」「勿体ない」とは、このことである。
法蔵菩薩は、その御心のうちに定まった誓願を、世自在王仏の御前で高らかに宣言された。これが、本願・四十八願と呼ばれるものである。四十八箇条にわたって、この様にできなければ止むまい、わたしは覚りを開くまい、仏にはなるまいという誓願を立てられたのである。前述の二願もこの中に含まれていて、その核心をなしているのである。