3. 難行自力の聖道門と易行他力の浄土門
どうやって、無明・煩悩を克服して無常・苦・無我の理を体得し、世の人々と共に生死の苦悩を離れるか、それが問題である。釈尊と同じく、出家し、釈尊と同じように修行して、釈尊と同じ覚りを得ようとする道が考えられる。しかし、龍樹菩薩はこれをあまりに遠く困難な道、事実上は不可能な道であるとして、「難行道」と呼ばれた。曇鸞大師は、難行なのは煩悩にまみれた人間が、自分の方から煩悩を離れた世界へ近づこうとする無理があるからであることを明らかにし、所詮は自己中心的なアプローチに過ぎないことを指摘して、これを自力がと名づけられた。道綽禅師はこの難行自力の道は、凡夫が釈尊の覚りをまねようとする、末代にふさわしくない行き方、聖道門であると言われたのである。
これに対し、万人が歩みうる道、易行・他力・浄土門として示された道がある。それが浄土三部経をより所として、龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信・原空・親鸞と受け継がれてきた浄土真宗である。阿弥陀如来の本願として示された不滅の真実をわがためと受け止め、南無阿弥陀仏の名号を、本願から届いたわれを呼ぶ声と聞き、浄土に生まれて仏となって苦悩の衆生を救おうと願えよとの呼びかけを喜びとし、励ましとし、力として、ともに浄土からの道、浄土への道、念仏の道を歩むのが浄土真宗である。