浄土真宗とは

2. 無常・苦・無我のことわりにそむく無明むみょう煩悩ぼんのう

 生死しょうじの苦悩をのりこえるために必要なのは、ありのままの事実を見つめる中から自らの生き方を見い出すことである。釈尊しゃくそんさとりを開かれたというのもそのことであった。

 釈尊は自らのさとりに立って、ありのままの事実を見つめた中から見い出した道理を説き示された。「無常むじょうなるものはなるものなり。なるものは無我むがなるものなり」ということであった。これは、「諸行無常しょぎょうむじょう」・「一切皆苦いっさいかいく」・「諸法無我しょほうむが」と言い表され、これに「涅槃寂静ねはんじゃくじょう」を加えて、仏教の仏教たる根本原理、仏教の旗印はたじるし四法印しほういんと呼ばれてきた。

 あらゆる物事は変化していくのであって、変わらずあり続けるものなどない。これが「諸行無常しょぎょうむじょう」ということである。 「諸行しょぎょう」とは、あらゆる形成されたものということ、「無常」とは変わらずに存続することはできないということである。 無常なのはわが身自身もまたそうであって、われが意のままにはならないのである。ままになるなら誰が年老としおいるであろうか、ままになるなら誰がむであろうか、ままになるなら誰が死ぬであろうか。もとはいなかったこのわたくしが、生まれてきたということがすでに無常であるというしるしであり、そしてやがてはおいみ死んでいなくなるのも無常のあかしである。

 この「ままならない」「われが意のままにならない」ということが、「苦」ということである。

 そもそもが、人は生まれを選ぶことができない。どんな時代の、どんな場所で、どんな両親の子として、男女いずれの性の、どんな姿や形の、どんな遺伝形質けいしつを受けいだものとして生まれるかを選ぶことはできない。生まれてきた姿そのものが、ままにはならないのがこの身、この命であることの象徴であるといわねばならないのである。これが「一切皆苦いっさいかいく」ということである。

 そうであってみれば、不滅ふめつ霊魂れいこん、あるいは〈たましい〉を論ずることは無意味であるといわねばならない。すべてのものごとは変化し、存在するものは崩壊し、消滅するのである。大宇宙もまた例外ではない。たましいがあろうとなかろうと人はおいい、たましいがあろうとなかろうと人はみ、たましいがあろうとなかろうと人は死ぬのである。たましいがあろうとなかろうと人は未来をうれいえ、たましいがあろうとなかろうと人は愛するものとの別れを悲しみ、たましいがあろうとなかろうと人は苦しみなやもだえるのである。

 要するに、無常むじょう無我むがなる現実が見えていないのである。これが無明むみょうあるいは愚痴ぐちといわれる状態である。

 その無明むみょう煩悩ぼんのうめつした寂静じゃくじょう境地きょうちにこそ、大いなる安らぎともいうべき涅槃ねはんがあるというのが、「涅槃ねはん寂静じゃくじょうなり」ということである。

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