浄土真宗の掟

領解文(改悔文)

 もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて 一心に阿弥陀如来 我等が今度の一大事の後生 御たすけさふらへとたのみもうしてさふらふ (安心)
 たのむ一念のとき 往生一定 御たすけ治定とぞんじ このうへの称名は御恩報謝とぞんじよろこびまうし候 (報謝)
 この御ことはり聴聞まふしわけさふらふ事御開山聖人御出世の御恩 次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩とありがたくぞんじ候 (師徳)
 このうヘはさだめをかせらるる御おきて一期をかぎりまもりまうすべく候 (法度)

( 意 訳 )

 この世でさとりを開くためのさまざまな修行や、念仏以外の浄土往生の道、この世の幸福を祈る手段としての称名など、自分の力をたのみとしてさとりの世界へ近づいていこうとする自己中心的な姿勢を転換して、
 ただ釈尊の仰せのままに二心なく、阿弥陀如来なればこそ、煩悩よりほかないこのわたくしを、この一生を最後に後生には浄土に於いて迷いを離れさせて如来のさとりに入らせて下さるという、人間にとっての大問題の解決を与えて下さるのであると、たしかに受け取らせて頂きました。
 このように受け取らせて頂いたたちどころに、往生はまちがいなく定まり、迷いを離れて覚りに至ることは確定したのであると存じます。この上の称名念仏はご御報謝であると思いよろこばせて頂いております。 この救いの道を聞き開かせて頂きましたことは、宗祖親鸞聖人が世に現れて下さったお蔭であり、その教〔御文章二の三〕えを今日の私まで受け伝えて下さった歴代本願寺の宗主方の、手を尽くしてのご教化の深いご恩によるものと、有難く存じております。
 この上はお定め下さった掟を一生涯守らせて頂く覚悟でございます。
 
  宗教が戦争に対する歯止めの力を失い、戦争を支援し助長するようになってし
  まったのは何故か。それを克服する道は?

当流の掟

一、当流の掟とは

〔御文章二の二〕

 あひかまへて他宗・他人に対してこの信心のやうを沙汰すべからず。また自余の 一切の仏・菩薩ならびに諸神等をもわが信ぜぬばかりなり。あながちにこれをかろ しむべからず。これまことに弥陀一仏の功徳のうちに、みな一切の諸神はこもれり とおもふべきものなり。総じて一切の諸法においてそしりをなすべからず。これを もって当流の掟をよくまもれる人となづくべし。されば聖人のいはく、「たとひ牛 盗人とはいはるとも、もしは後世者、もしは善人、もしは仏法者とみゆるやうにふ るまふべからず」(覚如上人『改邪鈔』)とこそ仰せられたり。

〔二の三〕

 一、諸法・諸宗ともにこれを誹謗すべからず。
 一、諸神・諸仏・菩薩をかろしむべからず。
 一、信心をとらしめて報土往生をとぐべき事。

〔二の七〕

 ことにほかには王法をもっておもてとし、内心には他力の信心をふかくたくわえ て、世間の仁義をもって本とすべし。これすなはち当流に定むるところの掟のおも むきなりとこころうべきものなり。

〔三の十〕

 一、神社をかろしむことあるべからず。 
 一、諸仏・菩薩ならびに諸宗をかろしむべからず。
 一、諸宗・諸法を誹謗すべからず。
 一、守護・地頭を疎略にすべからず。 
 一、当流にたつるところの他力信心をば内心にふかく決定すべし。

〔四の一〕

 内心にふかくふかく一念発起の信心をたくはへて、しかも他力仏恩の称名をたし なみそのうへにはなお、王法を先とし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎 略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義の・すがたを他宗・他門のひとにみせざるをもって、当流聖人の掟をまもる真宗念仏の 行者といひつべし。

※煩悩具足と信知して本願力に乗ずる身となる上から、、聞法者としての基本姿勢を失わず、宗教の名において自らを正当化したり権威づけしたりせず、他の宗教信者の存在を受け入れて争わず。十方衆生救済の悲願の中に生きる。

二、真宗念仏者の掟の原点

七ケ条の(起請文)制誡

 元久元年(一二○四)年比叡山延暦寺の専修念仏停止の訴えに対して、法然上人 とその門弟が言行を正すことを誓って連署し、比叡山に送った七ケ条の誓紙。親鸞 聖人も僧綽空の名で署名されている。
 1,天台・真言の教説や諸仏菩薩をそしらぬこと
 2,無智の身で有智の人と論争せぬこと
 3,専修念仏以外の人に対し、その教学や修行を批判せぬこと
 4,念仏門には戒は無用であり、悪をつくることも自由であるなどと主張せぬこと 
 5,ことごとに自分勝手な解釈や理論をとなえないこと
 6,愚鈍の身でひとを教化などしようとしないこと
 7,仏法にはずれた教えを説いて、これが正しい仏法であるなどと主張せぬこと  ※『歎異抄』『注釈版聖典』八四○頁参照

三、掟の背景にある教学的根拠

 「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」(観経疏)善導
 外に賢善精進之相を現じて内に虚仮を懐くことを得ざれ
 外に賢善精進之相を現することを得ざれ。内に虚仮を懐けばなり      親鸞聖人
    
 「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる」
 者ノ逃グルヲ追ワエ取ルナリ、一度取リテ永ク捨テヌナリ      (左訓)
            
・自らは法に背き、真実に背を向け、如来から逃げる存在としての凡夫と信知し、愚悪になりかえって凡夫目当ての弥陀の願力にしたがうのが念仏の道。
「無碍といふは、さはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の悪業煩悩にさへられざるなり」『尊号真像銘文』『注釈版聖典』五六二頁
「仏法をばやぶるひとなし。仏法者のやぶるにたとへたるには、「獅子の身中の虫の獅子をくらふがごとし」と候へば、念仏者をば仏法者のやぶりさまたげ候ふなり」『親鸞聖人御消息』『注釈版聖典』七九一頁
「余のひとびとを縁として、念仏をひろめんと、はからひあはせたまふこと、ゆめゆめあるべからず候ふ。そのところに念仏のひろまり候はんことも仏天の御はからひにて候ふべし」『親鸞聖人御消息』『注釈版聖典』七七二頁
・凡夫のはからいで仏法を護るとか広めるとかいうことはありえない。世俗的な力で護ろう広めようとするもの、我に仏法ありとし、我が仏法を護ろうとするもの(仏法者)こそが仏法を破壊する獅子身中の虫である。凡夫はあくまで背く者だからこそ呼びかけられている聞法者であり、仰せにしたがうばかりの念仏行者であり、知恩報徳の試みとしての伝道者であるより他はない。

四、護法思想の陥穽

・誰も「我に仏法あり」と言うことは許されない
・誰も法の擁護者たりえない
・衆生を護持養育し、護念し、照護したもうは仏のみ
・背く人間が「護法のために」というとき、歯止めのない仏対する反逆が始まる      しかも反逆と気づかぬまま
・愚痴なる身になりかえって、あくまでも聞法者として
・護法思想は外道のもの、自己誤認と宗教エゴに根ざす九十五種の外道は世を汚す      愛見の坑に陥る見愛我慢の心を離れず

五、僧侶の地位      仏の代弁者・代行者でも、仏との仲介者でもない  

 聞法者としての専従職

六、苦悩の衆生のために現れた如来 医王に譬え、父母に譬え、友に譬える

 ※神のために人間がいるのではない。神は支配者ではなく、愛である。
      神=愛      エゴイズムを超えたもの意か
                    
 誰も神の代弁者や、仲介者であることはない。神の名で人を裁いてはならない
 『新約聖書』の意

七、如来には敵はいない。なのに敵を見つけ出すものこそ、獅子心中の虫であり、反逆者である。

八、宗教が宗教であるが故の課題      宗教エゴの克服

 宗教の社会的使命      個人的・集団的エゴを批判する視点を提供すること
 王法為本      宗教エゴどうしの確執克服のいましめ
   異教徒と共に生きるための規範
   仏法をたてんかため

九、政治の宗教利用は宗教の政権追随を生み、歯止めのない圧政、逃げ場所のない洗脳社会を許す。社会のまがりとゆがみをただす最後のよりどころこそ宗教であるからである。