いのちの悲しみ
「としどしにわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり」という岡本かの子さんの歌に感銘しました。友を失う別れの悲しみ、今まで当たり前にできていたことができなくなる老いの悲しみは一年一年深くなるというのでしょう。その悲しみが深くなる分だけ、いよいよ生きてあることの華やかさ、あらゆるいのちが持つ華やかさが見えてくるということだと思います。悲しみもまた生命の燃焼なのですね。
いのちの忘れもの
心という字と亡くなるという字を合わせた字が二つあります。忙と忘です。傘も、財布も、仕事も、遊ぶことも、面子を守ることも、何一つ忘れず、忙しく走り回って来たけれど、気がついたら自分の命が限りあるものだということを忘れていた。お金の損にはすぐ気がつくが、お金のために限りある命を浪費していたという命の損には気がつかなかったいうのでは寂しいことです。忙は命の忘れものですね。
いのちの目覚まし
「今日ばかり思ふこころを忘るなよ さなきはいとど望み多きに」とうたわれたのは覚如上人です。無常の身、限りある命、二度とない今日ということを忘れるから、際限のない欲望に振り回されるのだという意味でしょう。死を見つめることは、人間に生まれたことの意味を見いだすための、なによりの目覚まし薬なのではないでしょうか。かけがえのない人から、ただ一服しかもらえない薬ですね。
いのちに火をともす
「諸行は無常である。怠らず努め励んで清らかな眼を開け」とは、釈尊の遺言です。清らかとは、我や欲を離れたということでしょう。明日は死ぬ身が今日は生きていると見れば、我を張ったり、欲をかいて空しく日を過ごせようか。努め励んで悔いのないように生きよということであると思います。何と単純で、真実で、実行困難な道でしょうか。迷いの凡夫と呼ばれている我が身の愚かさを痛感します。
いのちに宿るねがい
「仏法には明日と申すことあるまじく候」「仏法の上には明日のことを今日するやうにいそぎ」と言われたのは蓮如上人です。今自分が死んだとしたら、このことが心残りだろうと思うことがあったら、今日すぐ始めるべきでしょう。これだけは聞いておきたいことこれだけは言っておきたいこと、これだけはしておきたいこと、そこに本当の自分がいるのではないでしょうか。
いのちの輝き
いのちの輝きはめざすものの高さ遠さによるのではないでしょうか。権力も財力も武力も、力と名のつくものは必ず滅びます。他の力と争わないではすみません。しかし、あらゆるいのちに光あれという願いは、滅びることがありません。そこにいのちあるものがいるかぎり、朽ちることも滅びることもありません。誰かがどこかで受け継ぐからです。どんな力ともぶつかることはありません。力では滅ぼせません。
不滅の願いに遇う
ままならぬ身、限りあるいのちだからこそ、人は願いを抱くのでしょう。いのちある全てのものの願いを汲み取って、「あらゆるいのちに不滅の輝きあれ」という如来の願いは生まれました。如来の不滅の願いは南无阿弥陀佛の名のりとなり、呼び声となってわたくしたちに届いてきました。この願いの中に生きようとするとき、どんなささやかないのちのいとなみにも不滅の輝きが宿って下さると教えられています。