〔本文〕
一 仏法の方に、施入物の多少にしたがつて大小仏になるべしといふこと。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。
まづ仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。かの安養浄土の教主(阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろもはなれなば、なにをもつてか大小を定むべきや。念仏もうすに、化仏をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」(大集経・意)といへるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられ候ふやらん。かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。
〔取意〕
仏法繁盛のために寄進する金品の多少にしたがって、成仏する際には身の大小の異なりがあるはずだということ。
このような妄説は決してあってはなりません。とんでもない話です。第一、仏に大小の分量の違いを定めるなどあるはずもないことです。安養浄土の教主阿弥陀如来の御身の大きさが経典に説かれてあるのも、それは一応の方便身として示された御すがたです。法性法身の覚りを開いた上は、長短方円の形を超え、青黄赤白黒の色を離れるのですから、何をもって大小の別を定めことができましょう。
念仏を称える中で、方便の仏身を見させて頂くということがあるとのことで、そのことについては経典に、「大声で念仏すれば、大きな仏を見、小声で念仏すれば小さな仏を見る」と説かれています。もしかしたら、この道理にでもこじつけての主張なのでありましょうか。
さてまた、仏法繁盛のために金品を寄進することは、布施の行として自力作善の第一歩と位置づけられるのですが、いかに宝物を仏前に捧げ、師匠にも施したとしても、信心が欠けていれば何の意味もありません。逆に、一紙半銭すら寄進できずとも、本願他力に心を託して大悲の深さを仰ぐならば、それこそが阿弥陀如来の誓願の本意にかなうでありましょう。
結局は、仏法にかこつけて、世俗的な欲望を果たそうという思いがあるから、こんなことを言い出して、念仏同朋を言いおどされるのでしょう。
〔参考〕
・施入物
寄進の金子や物品。
・不可説
心得違いの許しがたい物言い。
・比興
道理に合わないこと。
・身量
仏身の数量的な大きさ。『仏説観無量寿経』には、「仏身高六十万億那由他恒河沙由旬」とある。那由他は百万を表し、恒河沙はカンジス河の砂粒の数を表し、由旬は唐代の長さ四十里に当たるというから、銀河系などはるかに越えた大きさということになり、人間の視覚を超え、思考をも超えた巨大さだということになる。
・方便報身
唯円房独特の用語。誓願を業因として現れた報身如来である阿弥陀仏が衆生を導くために応身・化身等の種々の方便身を現されることの一例として、『仏説観無量寿経』の説もあるとする見方を示すものと見られる。
・法性のさとり
色や形を離れ、言葉で表現しようもなく、心でとらえようもない究極の真理を覚ること。
・長短方円の形
方は四角い、円は丸いということ。
・青黄赤白黒の色
五色を挙げて、あらゆる色彩をいう。
・化仏
『仏説観無量寿経』に、「於円光中、有百万億那由他恒河沙化仏」とある。仏が衆生を導き救うために相手の機根に応じて現した方便身を化身といい、化仏という。
・大念小念
大声の念仏・小声の念仏の意。源信の『往生要集(巻中)』「大文第五」に、『大方等大集経日蔵分(巻四十三)』を引用して、「大念見大仏、小念見小仏。大念者大声称仏也。小念者小声称仏也」とある。これをうけて、法然の『選択本願念仏集』にも、また、親鸞聖人の『顕浄土真実教行証文類』「化身土巻」にも、同様の引用がある。
・檀波羅蜜
檀那波羅蜜の略。檀那は布施と訳し、波羅蜜は到彼岸と訳す。誰彼の別なく、何を此れをの隔てなく施して、しかも我が施したとの思いを離れた施しをいうとされる。聖道門の修行の基本である六波羅蜜の第一に挙げられる行である。
〔私釈〕
寄進や懇志の大小に応じて、往生してから得る仏身にも大小があるはずだという異義である。
法性の覚りを得た仏身は、形相や分量を超越したものである以上、全く荒唐無稽の説であることは論を待たない。仏法にことよせた欲心から出た言いおどしであろうと断じてある。
歎異の後八条全体を貫くものは、聖道門的発想から抜け出せない僧侶身分の人々、すなわち学生だつる人、智者気取りの人、仏法者気息の人たちが、自らの学識を誇って念仏同朋の中において一段高いところに立ち、「ああでなければならない、こうでなければならない。さもなくば」と文字をも知らぬ人々をしいたげ、言いおどす姿に対する嘆きと憤りである。
時には釈尊の教えを逸脱し、弥陀の本願を歪曲し、聖人の仰せにないことを言う背景には、聖道門自力の心のみではなく、自らの特権的地位を確保し、名聞利養を求めようとする(恐らくは無意識の)護教者意識と僧侶エゴが潜んでいることを喝破している。
そしてそれが、単に聖人の仰せと異なるにとどまらず弥陀の悲願に対する恐るべき反逆であることを示唆するものである。
〔証文にあたる聖人の仰せ〕
・第四条
「念仏していそぎ仏になりて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益する」
・第五条
「さとりをひらきなば、六道四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも神通方便をもつてまづ有縁を度すべきなりと」