第十条 念仏には無義をもつて義とす。

〔本文〕

 一 念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。

〔取意〕

 他力の念仏においては、自力のはからいを捨て離れたことをもって、如来の御はからいにかなったよきはからいとするのです。
 何故ならば、人間の思いはからいをはるかに越えた如来の御はからいからとどいたものが念仏であるからであり、阿弥陀如来の誓願といい名号といい、われわれの知恵では、ほめ讃えようも、説き明かしようも、思いはかりようもない広大なものだからです。このように法然聖人の教えを継承して仰せられました。

〔参考〕

・無義

 はからいなきこと。はからい無用と捨て離れること。

・義とす

 如来の心にかなったよきはからいとするということ。
 「他力と申すは仏智不思議にて候なるときに・・・仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候」『御消息』第十九通「他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり・・・如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり。凡夫のはからひにあらず」『同右』

・と仰せ候ひき

 「仰せ候ひき」とは、親鸞聖人が、「法然聖人がこのように仰せられた」という意味だとする見方もあるが、それならば「仰せ候ひきと云々」と結ばれるはずだともいえる。
 第三条と同じく、「仰せ候ひき」で結ばれているのは、第三条と同じく、法然聖人からの口伝に基づく教えであるから、他の条の「と云々」で結ぶのと区別をつけてあると見るのが妥当か。

〔私釈〕

 「自力のこころをひるがへして他力をたのむ」とは、己のはからいなど、浄土に生まれるためには何の役にも立たないのだと見切りをつけて、如来の御はからいにお従いしようと意を決することこそ、往生を願う上では何より善きはからいというものであると示し、「自力のこころをひるがへす」姿を示す。次いで、不可称不可説不可思議の本願力を仰げと勧めて、「他力をたのむ」ことの意義を明かしてある。真信編前十条を締めくくる一文である。