第五条 孝養のためとて念仏申したること候はず。

〔本文〕

 一 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。

〔取意〕

 親鸞は、亡き父母の追善供養のためにしようと思って念仏したことなど、今まで一度もありません。
 何故ならば、一切のいのちあるものはみな、数知れぬ過去世における父母兄弟であるからです。(父母を知らないものにも実は無数の父母があり、子のいないものにも実は無量の子がいるのであり、兄弟のいないひとり子にも実は数知れぬ兄弟姉妹がいるのです。)誰も彼も次の生に浄土で仏になった上はたすけなければならないものばかりです。
 自分の力で励む善であるのなら、念仏の功徳を送り届けて亡き父母をたすけようということもありましょう。しかし念仏は一切の有情を救うどころか自分一人すら救えぬわたくしのために阿弥陀如来から回向されたものです。
 ひとえに自力の心を捨てて念仏し、浄土ですみやかに覚りを開いたならば、相手が地獄 餓鬼・畜生・修羅・人間・天上、また卵生・胎生・湿生・化生のうち、いずれの世界で如何なる業苦に沈んでいようとも、仏の神通方便の力をもって、まず縁あるものから救うことができるのです。このように仰せられました。

〔参考〕

・父母の孝養

 父母の死後に追善・追福の仏事を行うこと。この時代は、生前の孝行以上に大切とされていた。これを生前中に本人が先勤めしておくのを逆修とも、予修とも称して、平安時代から盛んに行われた。
 『仏説観無量寿経』には、「父母に孝養し、師長に奉仕し、慈心にして殺さず、十善業を修す」という一節があり、前条同様、この経文の意をどう受けとめるかをめぐっての、「自力のこころをひるがへして他力をたのむ」ことへの示唆と見られる。

・この順次生

 現生の次の生を指していう。後生・後世というも同じ。

・回向

 ここでは、送り届けるという意味。

・急ぎ浄土のさとりをひらき

 利他の大慈悲心をあらわす。前章の〔参考〕・参照

・神通方便

 神通力と方便力。神通力とは、・宿命通・天眼通・天耳通・他心知通・神足通・漏尽通の六。衆生を自在に救うために必要な特別な能力。方便力はすぐれた教化能力。

〔私釈〕

 「自力のこころをひるがえして他力をたのむ」ということを、父母の孝養という課題に沿って考察した一章である。父母は恩を受けた肉親であって、衆生利益という観点からすれば、第一に向かうべき対象と考えるのが聖道自力の常道かもしれぬが、わが力で、わが父母だけは、という中に自己中心的な自我意識がはたらいている。それを超えて、一切の有情はみな世々生々の父母兄弟なりという視点に立つことを教えているのが仏法であり、それが仏心であったと示唆している。「わがもの」意識を超えて、仏の智慧の眼を仰ぎ、仏の大慈悲心に帰することこそ、「自力のこころをひるがえして他力をたのむ」ことであるとの教示である。