〔本文〕
一 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして他力をたのみたてまつれば真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて、善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。
〔取意〕
自力疑心を離れられないで、念仏を自らの手柄のように心得、自らを善人と思っている人でさえ、念仏を申せば阿弥陀如来の大悲によって方便化身土に往生を遂げるのです。まして、弥陀の大悲は罪悪深重のわがためと自力疑心を捨てて、阿弥陀如来の本願を信ずる身となった悪人はなおさらであって、真実報土の往生は間違いのないところです。
ところが世人は大抵言います。悪人さえ往生するなら、まして善人はなおさらであろうと。この言い分は、一応は理屈が通っているようにみえますが、念仏を往生の道たらしめている本願他力のみ心に背くものです。
何故かといえば、自力で善行功徳を積んで往生しようとする人は、阿弥陀如来の本願他力をわがためと信ずる心が欠けている故に、阿弥陀如来の本願に背を向けた人です。そんな人でも、わが身わが心では及びようもない如来の真実であったと、自力の心をひるがえして、他力を仰ぎ信ずれば、真実報土に往生を遂げるのです。
あらゆる煩悩を具えたわたくしたちは、どんな行を試みても、生死の迷いと空しさを離れることなどできるはずのないことを憐れんで、逃げても逃がさぬ南無阿弥陀仏の声となって、耳から心へ飛び込んで救おうという誓願を立てられたことは、悪人を成仏させるためであったのですから、本願他力をわがためと信ずる悪人であることこそ、何にもまして往生のまさしき因なのです。
それで、善人さえも往生するのですから、まして悪人はいうまでもありませんと。このように法然聖人の教えを継承して仰せになりました。
〔参考〕
・善人
自力作善、疑心の人・定散二善を修する人・観経九品段の上・中品の人に当たる。定善は心を凝らして浄土を観ずること。散善は心は散りつつも世俗と仏法の善を修すること。この二善に、諸善万行がおさまる。その意味でいえば、善人とは、諸善万行を修し得ると自認して、それを修する人である。『仏説観無量寿経』の序分には「一つには父母に孝養し、師長に奉仕し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには・・・三つには・・・」とある。
「善人なほもつて往生をとぐ」とは、第十九修諸功徳の願の意を表すものである。これに対して本願他力の意趣とは、第十八願の意をいう。
・悪人
経文の上からは、『仏説観無量寿経』九品段下品の人、すなわち「十悪五逆具諸不善」の愚人を指す。ここでは他力をたのむ悪人と押さえる。我が身は、如来のお見立て通り、罪悪生死の凡夫であり、生死を出離する縁なき身なるが故に、阿弥陀如来が摂取不捨の願を立てて下さったのであるからこの願をしたがえば必ず往生すると信知する人を指す。
第十三条には、「われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり」とあり、当面心の善良な人が往生にふさわしい「善人」、邪悪な人は往生できない「悪人」という皮相な見方は当たらぬことを示唆してある。また、「悪をつくりたるたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくり」という心得違いを指摘してあって、如来は、悪を犯すことを望んでおられると勘違いしてはならぬと戒めてある。善悪を超えてあらゆるものをへだてなく慈しみ悲しむ不可思議の願力によってたすけたもうのだと明示してある。
※ 善人か悪人かという評価で裁かれるのではなく、・本願を信ずるか信じないかこそが、真実報土への往生の得失を決定するということ、・善人よりも悪人こそ目当ての本願であるということを明らかにする。・は信心こそ正因を明かし、・は悪人正機を明かす。この章の「悪人正因」という言い方は、・・を合わせ略した表現と見られる。
・自力のこころをひるがへして他力をたのむ
先師口伝の真信とは、第一条には、弥陀の本願を信ずるのだと示し、第二条には、よきひとの仰せをかぶりて信ずるのみと示し、この第三条において、自力のこころをひるがえして他力をたのむことだと決する。
そして、これ以後の四条から九条を貫くキーワードとなっているのがこの一句である。自力のこころとは具体的にはどのような思いやはからいとして潜在するのかを指摘し、それをひるがえして他力をたのむとはどのように発想を転換することなのかをテーマごとに具体的に示してあると見ることができる。
この三条の中では、善人はよし、悪人は不可という自力のはからひが問題とされ、悪人成仏の本願を、たのむべき他力と示してある。
「たのむ」は、「信む」と表記するのがふさわしい。信受の義である。「た」は強意の接頭語。「のむ」は腹に入れること。合わせて、しっかり受けとめること。ようこそと受け取ること。元来、「信」字の古訓として「たのむ」「まかす」があったのだという。
・真実報土と方便化土 ※第十七条の辺地往生の記事参照。
・真実報土 (無量光明土)
往生極楽
信心の智慧を得た行者の往生するところ。「即証真如法性身」と『正信念仏偈』にあるごとく、往生するやただちに阿弥陀如来と同じ究極の覚りに至ると聖人は見られた。第十八願に対応する。
・方便化身土(懈慢界・辺地・疑城胎宮・含華未出)
自力疑心の念仏者の往生するところ。仏智疑惑の罪ゆえに五百年の間待機せねば真実報土に転入できないとされる。第十九・二十願に対応する。
・煩悩具足
貪欲・瞋恚・愚痴の三毒煩悩をはじめとして、あらゆる煩悩が欠け目もなく具わり、集合体となって出来ている身ということ。身に煩悩がくっついているのではなく、もともと煩悩でできている身だということ。「煩悩成就凡夫人」という語も用いられている。『浄土文類聚鈔 念仏正信偈』
・生死を離れる
仏法は、生死出ずべき道、生死を離れて覚りに至る道と言い表されてきた。ここでいう生死とは、迷い・苦しみ・空しさという意味であり、覚りの真実に対して、虚仮不実の世界すなわち、「よろずのことみなもつてそらごとたはごとまことあることなき」世界(後記)と示される。
生死
・生死無常の理 (生老病死)
・生死の苦海ほとりなし (憂い悲しみ苦しみ悩み悶え)
・生死輪廻 空しく過ぐる(生きることの無意味さ)
この生死を出る道に、今生での開覚を目指す自力聖道門と、後生において往生成仏させようという仏願に随順する他力浄土門という二つの道があるというのである。
・仰せ候ひき
この第三条と第十条だけが、「と仰せ候ひき」で結ばれているが。この二条の内容はともに法然聖人からの口伝でもあるため、法然聖人の仰せを表すと見られる。※『醍醐本法然上人伝記』『口伝鈔』九○七頁参照
弥陀の本願 釈尊の説法 善導の御釈 法然の仰せという伝承の内容の展開として本章がある。
〔私釈〕
「自力のこころをひるがへして他力をたのむ」という一句は、第一条・第二条・第三条を通して示される故親鸞聖人の口伝の真信のありようを端的に言い表している。以下の第四条から九条までは、その「自力のこころをひるがへす」とは、どのような形で潜在する自力のはからいを、どのように発想を転換することが他力をたのむ姿なのかを、さまざまな課題を取り上げて語り残された遺訓を通して示すのである。第十条はその総括として、「無義をもつて義とす」ること、すなわち自力のはからいは往生浄土の道には無効であったと捨てることこそ、よきはからいというものであるという言葉で結ぶのである。
この条では、善人・悪人の問題が取り上げられている。思うに、自力のはからいの基軸ともいうべきものは、善悪と因果の観念である。第二条には、「念仏は浄土に生るるたね
(因業)にてやはんべらん、また地獄におつべき業(因業)にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり」といい、また後記には、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」という聖人の仰せが引用されている。
「善因善果・悪因悪果」は、仏教の鉄則とまでは誰もが知るところであるが、その善悪の判定も因果の証明も、仏智の知ろしめすのみであって、凡夫の知りうるところではないという分限が忘れられたときは、仏教の名のもとに力あるものの独善と差別がまかり通ることになる。
第十三条において、五劫思惟の本願が立てられねばならなかった宿業の身たるわれらということが論じられ、さらに後記において、「弥陀の五劫思惟の願」「それほどの業」「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」「身の罪悪のふかきほど」などの言葉を重ねて、「われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり」ということを強く戒めてあることに注目すべきであろう。
「悪人すら往生が可能なら、善人はなおさら」という常識の奥に、無自覚な傲慢がひそんでいたのである。それを指摘しえたのは、人間のはからいを越えた不思議の仏智、広大無辺の大悲に遇うことのできた念仏者であった。