〔本文〕
一 おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべらん。また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ、法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。
〔取意〕
みなさま方が十にも余る国ざかいを越えて、身命をもかえりみずに、お訪ねになっていらっしゃいましたのは、ひとえに往生極楽の道についての疑問を聞きただすためでございます。
しかしながら、このわたくしが今までみなさまにお勧めしてまいりました念仏の道より他に、特別の往生の道があることを知っているのではないか。またその典拠となる経典論書についても心得ているのではないか。知っていながら、われわれのような無学愚鈍のものには教えぬ方がよいと隠してきたのではないか。本当のところはどうなのかなどと、わたくしに裏表があるように思っていらっしゃるのなら大間違いでございます。
もし、そのようにお考えなら、奈良や比叡山にも錚々たる学僧方がいらっしゃって、かねがね、法然上人の教えは誤りであり、人々を惑わすものだと批判してこられたのですから、その人たちにもお会いになって、念仏以外の往生の道とは何かをよくよく聞かれればよろしいのでございます。
この親鸞におきましては、「ただ専ら念仏して、阿弥陀如来にたすけていただこう」とわがよき師法然上人が仰せられるのを聞かせていただいて、ようこそこのわたくしにと信じている他に何の算段もはからいもあるわけではありません。念仏は本当に浄土に生まれる因であるのか、また地獄に落ちる業であるのか。まったく知るところではありません。 たとえ、奈良や比叡山の学僧たちの批判通り、法然上人の教えは念仏の過大評価であるのに、お人好しにもその言葉にだまされて、他の行すべてを捨ててしまってただひとえに念仏して、結果は地獄に落ちたとしても、さらさら後悔する理由はありません。何故ならば、念仏以外の行を励んでいたら仏になる可能性もあったところを、法然聖人の誇大宣伝に乗せられて、他の一切の行を捨てて念仏しか申さなかったために、地獄に落ちてしまったというのなら、だまされてという後悔もあるでしょう。もともと如何なる行も浄土に届くほど真実には、行ずることのできない身なのですから、いずれにしても地獄はお定まりの住み家であったのだといわねばなりますまい。
罪悪深重のものも、念仏一つで救わずにはおかぬという『仏説無量寿経』に説かれた阿弥陀如来の本願がまことなら、下の下の悪人も念仏一つで往生を遂げると説かれた『仏説観無量寿経』の釈尊の説法が嘘であるはずはありません。釈尊の説法がまことなら、一心に専ら弥陀の名号を称えることこそ往生の一本道であると示された善導大師の『観経疏』のご解釈に偽りのあるはずはありません。善導大師の御釈がまことなら、ただ念仏して弥陀にたすけていただけという法然上人の仰せがそらごとであるはずがありましょうか。法然上人の仰せがまことなら、今親鸞が、仰せをこうむって信ずる他に別の子細はないと申すことも、決して言葉だけの空しいことではないのではないでしょうか。 結局のところ、愚かなわたくしの信心においてはこの通りです。この上は、専修念仏をただひとすじの浄土への道と信じさせていただこうと、また、念仏にすべてをかけるのは危険だと見て捨てようと、みなさまお一人おひとりのご判断です。このように仰せられました。
〔参考〕
・念仏よりほかに往生のみち
称名念仏ただ一つを修する専修念仏(善導流念仏)以外の道。諸行往生の道、すなわち自力聖道門の行をもって往生を願う道。
・南都北嶺のゆゆしき学生たち
奈良や比叡山の学僧たちの一部は、激しく法然聖人の説き勧めた専修念仏(ただ念仏)を非難攻撃した。そしてその結果が、法然聖人や親鸞聖人の流罪であり、専修念仏禁止令の発布であった。ここではその人達を名指しで挙げている。「わたしを疑うなら、念仏を流罪に処したあの人たちに聞け」という、毒を含んだ言葉である。
・よきひと
有縁の知識・善知識・善友ともいう。善き師・善き先達の意。
ここでは、釈尊・善導・法然の三師を重ね合わせていう。
・すかされまひらせて
法然聖人の教えは、称名念仏を過大評価するものであり、結果として人をだますものだとの批判があったことを受けていう。「すかす」とは、無いものを有るというような嘘をつくことではなく、子供をあやす時に大げさなことをいうように、針小棒大に誇大な物言いをしてだますこと。
・弥陀の本願
念仏往生の願 ※第一条の〔参考〕・の・を参照
第三条には、「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のため」とある。また、第十一条には、「やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらん」と御約束あることとある。要するに、悪人を南無阿弥陀仏で救おうという誓願である。
・釈尊の説法
「十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。 中略 すなはち極楽世界に往生することを得」『仏説観無量寿経』九品段下下品釈尊が、凡夫には上々から下々まて九品の善悪あれど、弥陀の願力あるがゆえに、九品ともに往生を遂げると証言されたこと。
・善導の御釈
「一心にもっぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるが故なり」『観経疏』散善義この文によって法然聖人は専修念仏に開眼されたと伝えられる要文。
・法然の仰せ
「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」 「念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼・入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし」『一枚起請文』
・親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず
弥陀の本願が真実なら、そのままの釈尊の経説、またそのままの善導の釈文、善導の釈そのままの法然の仰せ、法然の仰せそのままの親鸞の信心である以上、正しく真実の一路であるという。
・面々の御はからひなり
今自分が述べたことを真実と受けとめるか否かは、所詮一人一人の聴取者にゆだねられるのだということ。
ここでいう「はからひ」は、教法を、如来から我への仰せと「聞思して遅慮することなかれ」というに通じ、また我が身については、「己の能を思量せよ」というに当たると見られる。この条の中で聖人は、明確にその両方について自ら信知するところを述べておられる。
〔私釈〕
この時、十余箇国の境を越えてたずねてきた人々の中に、著者である唯円房もいたと思われる。そしてこれがきっかけで、常随の弟子となって永く晩年の聖人に仕えたものであろう。
初対面の聖人から承った一連の言葉、切れば血が吹き出すような一句一句である。耳をそばだて、深い感銘に打たれて鳥肌が立ったまま、時の流れが止まったようなこの場のことを、後々も鮮やかに思い起こすことができたであろうことが読み取れる文章である。
「愚身の信心におきては」と赤裸々に語り、「この上は、面々の御はからひなり」とゆだねられた時、唯円房は何を思ったのであろうか。しかし、唯円房の思いは語られない。記されたのは、鮮やかな師の“仰せ”であった。まさしく「口伝の真信」が録されたのである。