本文
それ南無阿弥陀仏と申すはいかなるこころぞなれば、まづ南無」といふ二字は、帰命と発願回向とのふたつのこころなり。また「南無」といふは願なり、「阿弥陀仏」といふは行なり。されば雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふ帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照の光明を放ちて行者を摂取したまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏」の四つの字のこころなり。また
発願回向のこころなり。
これによりて「南無阿弥陀仏」といふ六字は、ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名なりとみえたり。このゆゑに、願成就の文には「聞其名号信心歓喜」と説かれたり。この文のこころは、「その名号をききて信心歓喜す」といへり。「その名号をきく」といふはただおほやうにきくにあらず。善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心
の道理なりとこころえられたり。かるがゆゑに、「信心歓喜」といふは、すなはち信心定まりぬれば、浄土の往生は疑なくおもうてよろこぶこころなり。このゆゑに弥陀如来の五劫兆載永劫のご苦労を案ずるにも、われらをやすくたすけたまふことのありがたさ、たふとさをおもへばなかなか申すもおろかなり。されば『和讃』にいはく、「南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には 還相回向に回入せり」とい
へるはこのこころなり。
また『正信偈』にはすでに「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」とあれば、いよいよ行住坐臥時処諸縁をきらはず、仏恩報謝のためにただ称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
文明六年十月二十日これを書く。
取意
(まず、南無阿弥陀仏の六字の意味を、南無の二字と阿弥陀仏の四字とに分けて明らかにする)
そもそも南無阿弥陀仏というのはどのような意味のお言葉であるのかと申しますと、南無には衆生が(阿弥陀如来に)帰命するという意味と、(阿弥陀如来が)すでに願を起こして衆生の心に届けて下さっているという意味があり、阿弥陀仏には(如来のおはたらきが)衆生の称名の行として現れて下さっているという意味があるのです。さらには、南無は願、阿弥陀仏は行であり、願も行も南無阿弥陀仏の中に具わっているからには必ず往生を遂げる道理なのです。すなわち、自力のはからいを投げ捨てて、ひとえに弥陀如来に帰命する南無の心を起こさせて、その人を光明を放っておさめ取って下さるのが阿弥陀仏であり、これが発願回向ということの意味であるわけなのです。
(次に、このような意味を持つ南無阿弥陀仏の六字であってみれば、この六字は報土往生の正因たる他力の信心ということを表していることを、本願成就文を引いて述べる)
このような意味を持つゆえに、南無阿弥陀仏という六字は、まさに私たちの往生が他力の信心一つで果たされる道理を表している名号であると知ることができるのです。それだから、『仏説無量寿経』下巻の本願成就文には、「聞其名号信心歓喜」と説いてあります。この意味は、諸仏ともに讃えたもう弥陀の名号を聞いて信心歓喜すれば」ということです。「其の名号を聞く」とはただ何気なく聞くということではありません。善き先達に遇って、南無阿弥陀仏の六字に込めて届けられている如来の真実ということがらをよく聞き開いたならば、なるほど他力信心一つで報土に往生させていただくことができるようにして下さっていたのだと心得られるのです。
(さらにこれをうけて、信心定まることは、即ち往生の定まることであるから、信を得たならば、往生を疑いなく思って歓喜せずにはいられないところであると示し、親鸞聖人もご和讃に、如来の恩徳の広大なことを讃えられたことを述べる)
このようなわけですから、「信心歓喜」といってあるのは、信心定った上は、浄土往生は疑いないと思って喜ぶということです。このように心得てみれば、阿弥陀如来の五劫思惟の本願と兆載永劫の行というご苦労を偲ぶにつけても、すべては、南無阿弥陀仏の信心一つで、私たちを無条件にたすけて下さるためであったのだとありがたさ、尊さを思えば申しようもないことであります。
こういうわけですから、親鸞聖人もご和讃に「南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には 還相回向に回入せり」とお讃えになったことでございます。
(最後に『正信偈』を引き、報謝の称名を勧めて結ぶ)
また、『正信偈』にも「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」と仰せられて、恩徳に報いるために称名念仏を勧められたのでありますから、この上は、いよいよもって、何時でも何処でも、仏恩報謝のために称名念仏させていただこうではありませんか。
まことに勿体ないことでごさいます。謹んで申し上げた次第でございます。
参考
- 南无
インドのことばナモの当て字。尊敬して頭を下げるという意味。 - 帰命
ナモの漢訳語。命に帰すの意。如来の仰せをわがためと受けとめ、よろこんでしたがうこと。信心をあらわす。 - 発願回向
浄土を願い、全ての努力をそこへふり向けること。今は、如来が十方衆生の救いを願い、果てしない努力によって南無阿弥陀仏をお届け下さってあること。 - 願と行(大行)
菩薩は誓願と六度の修行によって成仏する。行は、努力・実践・はたらきをいう。 - 唯願無行の批判・別時意説
念仏は浄土を願う行為ではあっても、覚りに近づく実践にはならない。念仏往生は子供だましの誘引説との見方からの批判が浄土教に浴びせられた。これに対して、南無阿弥陀仏の六字には願も行も具足していることを示して反論したのが善導大師である。 - 雑行雑善
聖道門の諸善万行は、浄土に向かっては的外れの行・善。 - 専修専念(一向専念・専修念仏)
唯一無二の道と受けとめ、ただ念仏すること。 - 一念
即時にという時剋的意味と、一心にという信相的意味がある。 - 遍照の光明
「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」仏説観無量寿経「月影の至らぬ里はなけれども眺むる人の心にぞ住む」法然聖人歌 - 他力信心
如来からわたくしに届けられた真実のお心。 - いわれ
他力信心のいわれ 内容と構造、その由来。仏願の生起本末。六字のいわれ - 願成就の文
法蔵菩薩のいにしえの本願が、その願いの通りに今日の阿弥陀如来の救いのはたらきとなって生きていることを、釈尊がお説きになった一段。 - 歓喜
歓喜は将来の成仏を今から確信して喜ぶこと。慶喜はすでに聞きがたい本願の真実を聞き、信じがたい念仏を信じえたことを喜ぶこと。 - 定まる
決定する。自己中心の計らいに縛られていた自分に気づいて、疑うことの無意味さがはっきりわかり、すべてはこのわたくしのためであったと、聞く耳が開けたこと。 - 五劫思惟
阿弥陀如来が法蔵菩薩の昔、背き逃げるものをも救う道は何処にあるかと思惟に思惟を重ねること五劫に及ばれたこと。 - 兆載修行
五劫思惟の末に立てた誓願を、衆生一人ひとりの心に注ぎ届けるために法蔵菩薩が永劫にわたって果てしない努力を続けられたこと。 - おろかなり
愚かという意味ではなく、おろそかという意味。讃えようがないの意。 - 往相還相
阿弥陀如来が与えて下さるものは、凡夫の私が浄土へ往って覚りを開き仏になる往相の道と、仏になっ上で凡夫の世界に還って来て衆生を救う還相の道の二つであること。 - 利益
救いのはたらき。生死の迷いを離れさせ、空しい苦悩を除き、覚りを得させ、衆生を救う身にならせて下さること。 - 回入
逆転的にはたらくこと。 - 「唯能常称如来号応報大悲弘誓恩」
ただよく常に如来の号を称え、大悲弘誓の恩を報ずべしということ。 - 行住坐臥時処諸縁
往くもとどまるも座するも臥すも、寝ても覚めても立っても居ても、時と処をえらばずということ。
私釈
まず、南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の衆生救済の行のすがたを表し、また同時に衆生の 救われていく他力の信心の内容を表すものでもあることを示す。
この名号を聞かせ信じさせて救う阿弥陀如来のおはたらきを、経文には「聞其名号信 心歓喜」と説いてあり、信心正因の宗義の眼目がここにあることを明らかにする。
この上は、念仏はあり難さをよろこぶご恩報尽のいとなみであることを、親鸞聖人の おさとしによって示し、称名報恩の義を顕す。
南無阿弥陀仏は、救いの相であり、信心の体であることを明らかにして、称えさえす れば往生という異義を払い、信心はそのまま大いなる喜びであることを示して、未来主 義の観念的理解をいましめる一章ともうかがわれる。