本文
それ、つらつら人間のあだなる体を案ずるに、生あるものはかならず死に帰し、盛んなるものはつひに衰ふるならひなり。さればただいたづらに明かし、いたづらに暮らして年月を送るばかりなり、これまことになげきてもなほかなしむべし。このゆゑに、上は大聖世尊よりはじめて、下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり。
しかればまれにも受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり。たまたま仏法にあふことを得たりといふとも、自力修行の門は、末代なれば、今の時は出離生死のみちはかなひがたきあひだ、弥陀如来の本願にあひたてまつらずはいたづらごとなり。
しかるにいますでにわれら弘願の一法にあふことを得たり。このゆゑに、ただねがふべきは極楽浄土、ただたのむべきは弥陀如来、これによりて信心決定して念仏申すべきなり。
しかれば世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。
されば南無阿弥陀仏と申す六字の体はいかなることぞといふに、阿弥陀如来を一向にたのめば、ほとけその衆生をよくしろしめして、すくひたまへる御すがたを、この南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまふなりとおもふべきなり。
しかればこの阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。これをすなはち弥陀如来の摂取の光益にあづかるとは申すなり。または不捨の誓益ともこれをなづくるなり。かくの
ごとく阿弥陀如来の光明のうちに摂めおかれまゐらせてのうへには、一期のいのち尽きなばただちに真実の報土に往生すべきこと、その疑あるべからず。このほかには別の仏をもたのみ、また余の功徳善根を修してもなににかはせん。あらたふとや、あら、ありがたの阿弥陀如来や。
かやうの雨山の御恩をばいかがして報じたてまつるべきぞや。ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と声にとなへて、その恩徳をふかく報尽申すばかりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
文明六年八月十八日
(取意)
(まず、誰も無常の道理から逃れられないこと、それを知りうる人間に生まれ、仏法を聞きえたことが何よりの幸せであることをさとす)
心を静めて、よくよく人間のあてどないありさまを思ってみますに、生まれたものは必ず死に、盛んなものは必ず衰えるのが道理であります。(まことにかけがえのない時の重さを思い知らされるところです)しかるに振り返ってみれば、ただ徒らに明かし暮らして年月を送るばかりでございます。これはまことに嘆き悲しむべきことだといわねばなりません。ここに立って考えてみますに、上は大聖世尊(釈尊)をはじめとして、下は悪逆の提婆達多にいたるまで、逃れようのないものが無常のことわりでございます。その中で、命を命と知り、無常を無常と知る人間に、生まれがたくして生まれることを得たのでございます。人間に生まれたことの不思議さ尊さに目覚めさせる仏法に、遇いがたくして遇うことを得たのでごさいます。
(次に、仏法には自力修行の門と本願念仏の道とがあるが、末代悪世の今は、自力の修行では出離生死という大目標は果たせないことを示し、本願念仏に遇いえたことの尊さと、喜び信ずべきを示し、さらに、本願念仏の道とは、浄土を願い、弥陀をたのむという信心を決定して念仏を申すことであると明示する)
幸いに仏法に遇うことができたといっても、自力修行の門は、今の時代は末代でありますから、これによって生死の迷いを出ることは不可能であり、(他力の救いを開く)弥陀の本願に遇わせて頂かなかったら、無駄ごとであります。しかるに、私たちは、今すでに、凡夫をももらさず救う本願の一法に遇わせて頂いたのです。
そうでありますからこそ、ただ願うべきは極楽浄土であり、ただ信むべきは弥陀如来の誓願であります。このように信心決定した上で念仏申すのがよろしいのでございます。
(さらにこれを踏まえて、声に南無阿弥陀佛とさえ称えれば、極楽に往生するという世間の常識的な理解は中途半端であやういものであることを指摘し、南無阿弥陀佛の六字が、阿弥陀如来をたのむ衆生を必ず救う道理をあらわすことを本質としていることを説き明かし、さらに、阿弥陀如来をたのむ、信ずるとは、どうすることなのかという問いを立てて、後生の一大事をたすかるためには、もろもろの雑行を捨てて一心一向にふたごころなく信ずることであると示し、その利益として、摂取不捨の光明の中におさめとられ、命尽きればただちに真実の報土に往生できるのであって、このことは疑いようのないことであるから、別の仏・別の行に心をかける必要もないと示す)
ところが、世の中の人々が大抵思い込んでいるところは、ただ声に出して南無阿弥陀佛とさえ称えれば、極楽に往生できるように思っているのです。それは大いに危ういことです。では、南無阿弥陀佛という六字の内容とは何か、どういう意味かといえば、阿弥陀如来をひとえに信めば、仏はその衆生をお見通しになって救って下さるということを、この南無阿弥陀の六字としてあらわして下さったと思うのがよいのでございます。それではこの阿弥陀如来をどのように信じて、後生をたすかればよいかといえば、何の思い煩いもなく、諸々の雑行雑善も我が身には無用と投げ捨てて、二心なく疑いなくただひとすじに阿弥陀如来なればこそと信ませて頂くならば、光明を放ってその人を光のなかに摂めとって下さるのです。これを、摂取の光益にあずかるといい、不捨の誓益とも名づけるのでございます。
このように、阿弥陀如来の光明の中に摂められた上は、一生のいのちが尽きたならば直ちに真実の報土に往生するのであって、これは疑いようもないことです。この他に別の仏を信み、また余の功徳善根を修行しても何になりましょうか。何と尊く有難い阿弥陀如来でありましょうか。
(最後に、この尊さ有り難さに対しては、南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛と声に出して報恩としての念仏を申すより他はないと結ぶ)
このような雨山のご恩を、どうやって報ずればよいのでしょうか。ただ南無阿弥陀佛・南無阿弥陀佛と声に称えて、その恩徳を深く報尽申すより他はないと心得るがよろしいのでごさいます。
まことに勿体ないことでございます。謹んで申し上げた次第でございます。
参考
- 仏法(生死出ずべき道) 浄土門 念仏往生 他力信心・称名報恩
無常の苦
諸行往生 (願うは浄土、心行は聖道門)
自力念仏(疑心・罪福心)
聖道門 現生開覚 自力・諸善万行
虚偽輪転無窮(空しさ) - 浄土
(果)真実報土 真仏・真土 真如法性身・蓮華蔵世界
(因)真実信心 仏願の生起本末(六字のいわれ)を聞きて疑心なし
(果)方便化身土 化仏・化土(辺地・懈慢界・疑城胎宮・含華未出)
(因)疑心自力 疑惑仏智・信罪福心 まゐらせ心 - 生あるもの
「生きているもの」ではなく、「生まれたもの」の意。 - いたづらに
徒らに・空しく・無意味に、「死」からの問いに応えないまま。 - 大聖世尊
釈迦如来をさす。偉大なる聖者、世に最も尊敬すべき方。 - 悪逆の提婆
釈尊を殺害しようとした弟子、提婆達多。 - 受け難き人身・遇い難き仏法
しばしば「四禅の線」「大海の杳」の譬えで示される・たまたま 「遇はまうあふという」 遇い難いことに遇わせて頂いたこと。 - 自力修行
自分のものさしにくるいはないと思い、自分の方から如来に近づこうとの発想で、覚りにアプローチを試みる行為。 - 末代
釈尊の時代から遠く、心の濁り多い時代。 - 出離生死
生死無常の理・生死の苦海・生死輪転の家を出で離れること。出離生死こそ仏教のテーマ。迷いと空しさを超えること。 - 後生の一大事
後生に浄土で覚りを得ること。一大事とは、覚りを開き出離生死すること。現生にこの世で覚りを開く「現生開覚」に対していう。 - 弥陀の本願
末代無智の罪悪深重の凡夫を救うために立てられた願い。 - 弘願の一法
何人をも漏らさぬ唯一の法たる本願念仏の法 - 信心決定
天親の『浄土論』の「世尊我一心 帰命尽十方無碍光如来 願生安楽国を範として、「ただたのむべきは弥陀如来、ただねがふべきは極楽浄土、これによりて信心決定」と意訳されている。 - 六字の体
南无阿弥陀佛の本体、本質。すがた(相)、はたらき(用)に対して、ものがらをいう。救わずにおかぬの弥陀の願心こそが六字の本体てある。 - 一向に
一心はこころのすがた、一向は身のふるまいについていう。 - なにのわずらいもなく
なにのやうもなくというに同じ。難しい行は要らない、あれこれとはからう必要もないということ。 - 雑行雑善
弥陀如来の浄土へ向かう道以外の、この世で覚りを開くための行や善。・摂取不捨の誓願・光明信を得たものにとどく光。調熟の光明に対す。逃げても逃がさぬ如来の願力に目覚めたこと。現生正定聚の位に就かせる。 - 真実の報土に
方便化身土に対する。即証真如法性身というのに同じ。浄土で真の覚りに至ること。 - 報尽申す
命あるかぎり報謝のいとなみとして称え続けるという意か。
私釈
諸行無常・出離生死・聖道浄土の二門、後生の一大事、本願の念仏・他力の信心、 摂取不捨の利益・往生成仏、信心正因称名報恩など、真宗教義の大綱を順を追って開き 示す。
前半において、何故仏教が起こらねばならなかったか・何故浄土真宗でなければなら ないのか、何故信心が肝要なのかを示す。後半において、無信の称名、口称正因の異義 を挙げて注意を喚起し、信心とは南无阿弥陀佛の六字がそのまま弥陀如来の救いの約束 であると受け取ることであることを明かし、その利益の広大であることを説き、報恩の 称名を勧めて、信心正因・称名報恩の本義を明らかにしてある。
真宗の基本教義を体系的に示してあるという意味で、代表的なご文章である。