人間であることの意味

 幸いなことに、私たちはその如来の智慧を教えとして聞くことができます。如来がお知りになるように知ることはできようはずもありませんが、このわたくしにかけられた如来の底無しの慈悲、果てしない願いを聞かせていただくとき、わかった知ったというのではなく、我が思いを越えた重く尊いいのちが広大無辺なるものの中に確かに抱かれているとうなづかせて頂くのです。
 福井の永平寺をお開きになったのは道元禅師です。その道元禅師の書かれた書物から、こんなことを教わりました。
 海の真ん中へ出てみると、海はただ丸く見える。だが、海が丸いわけではない。我々の目の届く範囲がただ丸く見えているだけである。その丸く見えているさらに向こうに海は果てしなく広がっていると知らなくてはならない。海は大きすぎてその姿は見えないのである。確かなことは、今わたしがその海の中にいるということだけである。

 まさにそのように、仏法は広大過ぎて我々の理解を越えている。われわれの理解したものが仏法だなどと思ってはならない。経験を積んでも積んでも、知識が増えても増えても腹は立つし、欲は深いし、愚痴も多いことは、幾つ何十になっても一向に治らない。そんなおろそかなわたしの智慧で、そんなさもしいわたしの心でわかるものは仏法ではない。ちっぽけなわたしの心にはおさまる筈のない果てしなく大きな真実、そして悲しいわたしが確かにその中にいる。わたしを抱いていて下さる確かな世界。わからないからといって心配しなくてもよい、納得できなくても疑う必要のない大きなまこと、それが仏法だったということを教わったのです。
 人間であることの意味は人間の智慧で明らかになるものではありませんでした。如来のみこころを聞く中に尋ねるべきもの、うなづきよろこぶべきものであったのです。
 中途半端な智慧を超えて、如来の悲願の中に、人間であること、今生きてあることの意味を聞き開く、それが「生死出ずべき道」「後生の一大事」であったわけであります。