正像末和讃法話

弥陀(ミダ)の尊号(ソンゴウ)となへつつ
信楽(シンギョウ)まことにうるひとは
憶念(オクネン)の心(シン)つねにして
仏恩(ブットン)報(ホウ)ずるおもひあり

※阿弥陀如来の尊い名号を常に称え、真に本願を信じ浄土を願う身となった人は、何ごとにつけても如来の本願のありがたさが思い起こされて、常に如来の願いにこたえたいとの思いがあるものです。

弥陀の尊号

 弥陀の尊号とは南无阿弥陀佛の名号である。その尊さを讃えるため今は尊号と呼ばれた。人間が便宜上つけた名前などではなく、阿弥陀如来が、その存在を知らぬわたくしに、ここにいるぞと名のり、そむき逃げるわたくし故に、声をからして呼びかけてくださるおすがたを名号という。釈迦如来が称えよと勧めたもうた南无阿弥陀佛、先人達の称える声となってきた名号であるが、そのままが阿弥陀如来からのこのわたしへの名のりであり呼び声であった故に、尊号と讃えるのである。人間の祈りではなくまじないでもない。如来からの名号であるとのお示しである。

となへつつ

 口に南无阿弥陀佛と称えるだけでなくという意味である。如来のお心も知らず自分勝手な思いで称える無信自力の称名ではなく、信心を得た上の称名であることをあらわす。

信楽まことにうるひと

 信楽とは信心のこと。第十八願の文には信楽とあり、願成就の文には信心歓喜とある。信はまた信受・信順と熟語で経文に出る。受けとめる・よろこんでしたがうという意味である。祈ることや思い込むことではない。楽の字は、ラクとよむときはたのしむという意味であるが、ギョウとよむときは、ねがうという意味である。今は浄土に迎え取って仏のさとりを得させようという如来の願いが、我が身にかけられていたことを受け取って、うれしや、ではどうそ生まれさせて下さいと願うという意味である。請い求めるということではなく、安心して喜びしたがうという意味である。
 ただ口に南无阿弥陀佛を称えるだけでなく、信心を得た上から称えている人は、とのお示しである。信心を得た者は必ず称名するが、称名するからといって必ずしも信心をそなえているとは限らないからである。
 親鸞聖人の師、法然上人は『観無量寿経』の「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」の文を歌にあらわして、「月影の至らぬ里はなけれども眺むる人の心にぞ住む」と示された。念仏衆生を眺むる人と譬えられたのである。仰ぎ見る人、心に受けとめる人の意である。口に称える人ではない。摂取して捨てられることのない念仏衆生とは信心の人であることを明らかにして下さったのである。
 弥陀の名号は誰の心にも届いて疑いの闇を破り、勇気と喜びを与えるはずであるのに、名号を称え如来を慕ってはいても、なお疑は晴れず喜びが得られないことがあるのは何故かという問いを掲げられたのは曇鸞大師である。大師は、如来が実相身であり為物身であることを知らないからであると解明された。実相とは如来の覚りをあらわし、法性・法身・真如・一如ともいう。色もなく形もなく、こころではとらえられず、言葉で説明もしようがない。この真如実相を我々衆生ににも受け取れるように表現して下さったものが、法蔵菩薩の本願を因として現れたもうた阿弥陀如来とその浄土である。この如来こそが十方一切の世界にあらゆる仏・菩薩を出現させ、仏法をもたらしている根源である。
 人間の思惟を超えた真理のはたらきを、名で表し形で示して、凡夫が耳に聞き、心に信じてよりどころとすることができるようにしてくださったのである。聞かせて頂くままを、我が心を超えた大いなる真実から我が身への呼びかけと素直に受け取らせて頂けばよかったのである。このことを知らなかったばかりに、まったく的外れな疑いをかけてきた我が身の愚かさに驚くのである。

憶念の心つねにして

 信心は一時の感情や思いなどではなく、一度得れば相続して消えることのない阿弥陀如来からの通信回路であり、ままならぬ現実に直面するにつけ、力およばぬ自らを見いだすにつけ、或いは愚かで浅ましい自らを省みるにつけても、このような人の世の現実と私の実態を見抜き通して下さっていたからこその、本願であり念仏であったと、いよいよ如来の広大な智慧と慈悲に思いを致すことつねであるとのお示しである。

仏恩奉ずるおもひ

 仏恩とは釈迦・弥陀の慈悲である。恩はめぐむと読む文字である。因に心づくという意味であり。すでになされたことを今知るという意味である。阿弥陀如来が無明の闇に迷い煩悩に悶え苦しむ我々を救おうとの願を立て、釈迦如来の口を通して南无阿弥陀佛の名号を以て呼び続けていて下さったことを知るのである。
 報ずるとは、応え報いることである。「万事につきて、よきことを思いつくるは御恩なり。悪しきことだに思い捨てたるはご恩なり」と言われる如く、みずからなす所を如来の御もよおしと喜ぶことであると同時に、如来の御こころに沿うようでありたい、如来の願いに応えたいと思うことである故に、「おもひあり」と結ばれたのである。
 称名念仏は、祈りではなく、功徳の積み立てでもなく、報恩であることを明らかにしたのが浄土真宗である。
 「恩返し」という言葉があるが、これとは異質である。返せるようなものは「借り」であって、恩とはいえない。返しようもないほど大 きいから「恩」というのである。自分のこころの奥にまでしみ通って自分のよりどころとなり、自分を動かしているからご恩というのである。
 妙好人因幡の源左は、「ようこそ、ようこそ」が口癖であり、「下に、させてもらうとつければよい」と言った。
「ようこそ、ようこそ」は願作仏心を表し、信心の智慧をあらわすことばである。また、「させてもらう」は仏恩報ずる思いを表すことば、他力を表すことば、真実に生きることをあらわすものである。今日、「させていただく」という言い回しは、一般となったが、これは、鳥取県の片田舎に生きた無名の一農夫源左が使い始めたものが世に広まったものだという。

釈迦弥陀(シャカミダ)の慈悲(ジヒ)よりぞ
願作仏心(ガンサブッシン)はえしめたる
信心(シンジン)の智慧(チエ)にいりてこそ
仏恩(ブットン)報(ホウ)ずる身(ミ)とはなれ

※教主釈迦如来と救主阿弥陀如来の慈悲によって、仏になって一切衆生を救いたいと願う心を得させて下さるのです。如来の智慧がこの身にとどいて、信心の智慧の中に生きてこそ、如来の恩徳にこたえ報いる身となるのです。

釈迦・弥陀の慈悲(歴史上の人物として現れた教え主釈迦如来)

教主釈迦如来は自らの覚りの智慧に立って、自らを目覚めさせ歩ませた不滅の法を阿弥陀如来の本願・名号と説き開いて下さった。欲といかりと愚かさから脱することができず、空しく命の時を通り過ぎようとする凡夫に不滅の法を受け取らせ、苦悩を乗り越える道を見いださせるためである。
 釈迦如来の覚られた不滅の法とは、色なく形なく、言葉で表しようなく、こころで思いようもないものである。迷いの凡夫は、これを知らず、求めることもない。しかるに、釈迦如来は凡夫のこころの暗闇を哀れんで、光をかかげ、よりどころを与えようと、あえてこの法を阿弥陀如来の本願と名号、浄土として説き示された。名を表し形を示して、凡夫が耳に聞き、心に信じてよりどころとすることができるようにしてくださったのである。これが釈迦の慈悲である。(仏法の原動力としてはたらく救い主弥陀如来)
 釈迦が不滅の法を阿弥陀如来の願力と説き明かしてくださったことは、観点を変えれば、阿弥陀如来の願力にもよおされて釈迦如来は道を求め、覚りを開き、世の人々のために法をお説きになったということである。阿弥陀如来が釈迦如来に身をやつして人の世に現れ人々に救いの道を示してくださったのだということである。これが弥陀の慈悲である。
 善導大姉は浄土真宗を「二尊教」と云われた。釈迦如来は娑婆世界に現れて、こちらから往けと勧め、弥陀如来は浄土を開いて、向こうから来いと呼びたもうからである。

願作仏心(仏になるのは私の願いではなく、如来からの願い)

浄土に生まれたいと願うことは、すなわち仏になりたいと願うことであり、仏になりたいと願うことは、苦悩の衆生を救いたいと願うことであると、親鸞聖人はいわれる。しかも和讃の「願作仏心」に注釈をほどこして、「他力の菩提心なり。極楽に生まれて仏にならんと願へとすすめたまへるこころなり」とお示しになって、仏になろうと願ってくれよとの阿弥陀如来のお心であるといわれる。仏になって衆生を救おうという心など、もともと持ってはいないわたくし故に、如来の方から注ぎ与えて下さる心であるとのお示しである。(仏になるということ)
 仏になるとはどういう意味かは、四十八願の第一願から第十一願に明らかに示してある。自らが苦しみ悲しみ嘆きと空しさから解放されるばかりでなく、他の者の苦悩を自在に救うことのできる力を得ることであるとのお示しである。しかもそれは、往生の後に与えられる利益であるにとどまらず、往生に疑いのなくなった現生からすでに大いなる勇気と励まし、喜びと報恩の念を得ることでもあるというのが、親鸞聖人のおさとしである。

信心の智慧(願作仏心は信心のすがた)

このわたしを仏にならせずにはおかないという弥陀・釈迦の願いであったと知るのが信心であり智慧である。願作仏心はすなわち信心であり、信心はそのまま智慧である。如来の願心がわたしに届き、わたしの中で願作仏心となってはたらくのである。如来の智慧の光の力で如来の慈悲を知り、如来の願力の広大さを知る身となるのである。(信心は如来の智慧がとどいたもの)
 信ずるとは、思い込むことや、凝り固まることではなく、間違いないと確信するわたしの判断でもない。こちらから求め訴え祈ることでもない。信ずるとは、わたしの心を超えた大きな真実がわたしを呼んでいたことを知ることである。教えを聞き、かみしめる中で、聞こえてくる大いなる真実がある。これを受信し、ああそうであったのかと知るのである。善導大師は「信知」といわれた。親鸞聖人はこれをうけて「煩悩具足と信知して本願力に乗ず」とも「本願円頓一乗は逆悪摂すと信知す」ともいわれ、「仏恩の深遠なることを信知して正信念仏偈をつくる」とも仰せられた。(世間的な知恵と信心の智慧)
 信心の智慧は、世間でいう知恵とは違う。われわれの知恵は、人は生まれ、老い、病み、死ぬものと知りながら、老いを悲しみ、病を憎み、死におののく知恵である。いのちを命と知り、何よりも命に愛着しながら、命を呪い命を持て余す知恵である。その名も残らぬ数知れぬ先人や世の人々の労苦と献身あればこそ、今を生きる身と知りながら、自らは楽な方へ、得な方へ、見栄えよい方へとのみ計らう知恵である。我々の知恵は、そのままが煩悩そのものである。(疑いは無智のすがた)
 疑うのは賢いからではなく、自分の知恵を超えた広大無辺の如来の真実があることを知る智慧がないからである。

仏恩を報ずる身 仏恩とは釈迦・弥陀の慈悲である。恩はめぐむと読む文字である。

因に心づくという意味であり。すでになされたことを今知るという意味である。阿弥陀如来が無明の闇に迷い煩悩に悶え苦しむ我々を救おうとの願を立て、釈迦如来の口を通して南无阿弥陀佛の名号を以て呼び続けていて下さったことを知るのである。
 報ずるとは、応え報いることである。「万事につきて、よきことを思いつくるは御恩なり。悪しきことだに思い捨てたるはご恩なり」と言われる如く、みずからなす所を如来の御もよおしと喜ぶことであると同時に、如来の御こころに沿うようでありたい、如 来の願いに応えたいと思うことである故に、「おもひあり」と結ばれたのである。
称名念仏は、祈りではなく、功徳の積み立てでもなく、報恩であることを明らかにしたのが浄土真宗である。
「恩返し」という言葉があるが、これとは異質である。返せるようなものは「借り」であって、恩とはいえない。返しようもないほど大きいから「恩」というのである。自分のこころの奥にまでしみ通って自分のよりどころとなり、自分を動かしているからご恩というのである。
「ようこそ、ようこそ」は願作仏心を表し、信心の智慧をあらわすことばである。また、「させてもらう」は仏恩報ずる思いを表すことば、他力を表すことば、真実に生きることをあらわすものである。
 今日、「させていただく」という言い回しは、一般となったが、これは、鳥取県の片田舎に生きた無名の一農夫源左が使い始めたものが世に広まったものだという。