〔本文〕
これさらにわたくしのことばにあらずといへども、経釈の往く路もしらず、法文の浅深をこころえわけたることも候はねば、さだめてをかしきことにてこそ候はめども、古親鸞の仰せごと候ひし趣、百分が一つ、かたはしばかりをもおもひいでまゐらせて、書きつけ候ふなり。かなしきかなや、さいはいに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。外見あるべからず。
〔取意〕
上に書き記しましたところは、決してわたしの勝手な言葉ではありませんが、経典論書祖師方の著書の内容に通じているわけでもなく、経文の深い意味をくみ取ることができているわけでもないのですから、きっとおかしなできであろうと思います。しかしともかくも、今は亡き親鸞聖人の仰せになったことがらの百分の一、かたはしばかりを思い出させていただいて書き記した次第です。悲しいことではありませんか。幸いにも念仏申しながらも真実信心欠けたるゆえに、直ちに真実報土に往生することなく、方便化身土である辺地に逗留せねばならぬとは。
同門の念仏行者の中に信心異なることのないようにと、泣く泣く筆をとってこれを書き記したのです。「歎異抄」と名づけておきましょう。同門の念仏者以外に見せないでください。
〔参考〕
・直に報土に生まれずして
自力疑心の念仏者は辺地(方便化身土)に五百年とどまって後、報土に入ること。
・一室の行者
同じ親鸞聖人の教えを仰ぐ念仏者
・外見あるべからず
謙譲の意の常套句。直接的には、一室の行者以外の人のために書いたのではないとの入念。
〔私釈〕
後序の第三段は、後序の結びであるばかりでなく、前序と対応してこの書全体の結語をなしている。本書に記したところが今は亡き親鸞聖人からの伝承に基づくことを示し、全編を貫く歎異の思いを述べ、「歎異抄」と名づける旨を述べて結ぶ。