中序(第十条の後半部) そもそもかの御在生のむかし

〔本文〕

 そもそもかの御在生のむかし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏申さるる老若、そのかずをしらずおはしますなかに、上人(親鸞)の仰せにあらざる異義どもを近来はおほく仰せられあうて候ふよし、伝へうけたまはる。いはれなき条々の子細のこと。

〔取意〕

 思えば、親鸞聖人ご在世のむかし、志を同じくして、遠い京の都まで足を運び、同一の信心に住して、ともに真実報土への往生に思いをかけた仲間は、一緒に念仏の本旨を聞かせて頂いたことです。しかし、その人々にしたがって念仏申しておられる幾多の老若男女の中に、近頃は、聖人の仰せにないさまざまな異義を唱える人が多いと伝え聞きます。それらがどのように道理にはずれ、聖人の仰せに反するのかを、一々取り上げて、申し上げたいと思います。

〔参考〕

・当来の報土

 この生を終えて後のまさに来るべき来世に、阿弥陀如来の本願に報いて開かれた真実の浄土に生まれること。

〔私釈〕

 親鸞聖人の口伝の真信とは何であったかの証文としての前十条(真信編)をしめくくる第十条の後半部がそのまま、異義を取り上げて批判を加える後八条(異義編)への序文となっている。この一段は『歎異抄』における中序とされる。第十条全体が、後八条の序文の役割を担っているとみることもできる。法然聖人から口伝された「無義為義」の要諦は前九条の結びをなすと同時に、後に挙げる八条の異義が、「義」すなわち自力のはからいの所産であることを総括的にまず示唆しており、「序」の役目を果しているとみることもできるからである。
 『歎異抄』という題号や、論述内容、分量配分などからして、まず、異義編と呼ばれる後八条と、後記のうちの異義編関連部分が書かれたと思われる。その中で、歎異批判の論拠として <親鸞聖人の仰せ>も八箇所にわたって掲げられているのである。しかし、親鸞聖人口伝の真実信心とはいかなるものであったかをより鮮明にする必要を感じて、「大切の証文ども、少々ぬき出でまひらせ候ふて、目やすにしてこの書にそえまひらせて候ふなり」とある通り、真信編前十条を加え、さらには前序を冠し、それに応じて後記の内容も追加したものと見られる。
 前十条との対照の便のために、次にまとめて掲載する。

異義編後八条、ならびに後記に引用された親鸞聖人のことば(証文)

・第十二条

 故聖人(親鸞)の仰せには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられ候ふ。しかれば往生はいよいよ一定とおもひたまふなり。あやまつてそしるひとの候はざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼえ候ひぬべけれ。かく申せばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず、仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとの疑いをあらせじと、説きおかせたまふことを申すなり」とこそ候ひしか

・第十三条

 またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と仰せの候ひしあひひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼへす候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と、仰せの候ひし

・同

 御消息に、「薬あればとて、毒をこのむべからず」と候ふ

・同

 また、「海・河に網をひき、釣りをして、世をわたるものも、野山にししをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがらも、商ひをし、田畠をつくりて過ぐるひとも、ただ同じことなり」と。「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」とこそ、聖人(親鸞)は仰せ候ひし

・十五条

 「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞)の仰せには候ひしか

・後記

 「善信が信心も聖人の御信心も一つなり」と仰せの候ひければ、勢観房・念仏房なんど申す御同朋達、もつてのほかにあらそひたまひて、「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、一つにはあるべきぞ」と候ひければ、「聖人の御智慧・才覚ひろくおはしますに、一つならんと申さばこそひがごとならめ。往生の信心においては、まつたく異なることなし、ただ一つなり」と御返答ありけれども

・同

 聖人のつねの仰せには「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひし

・同

 聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか